メッセージ

[主日礼拝-231022] 『地の塩と世の光』(2) (マタイの福音書 5章13節-16節)

投稿者
logos
投稿日
2023-10-23 21:46
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『地の塩と世の光』

[マタイの福音書 5:13-16]
“13あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。14あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。15また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。”

神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。

本文の御言葉はイエス様が弟子たちに「あなたがたは地の塩と世の光だ」とおっしゃった内容です。
この御言葉はイエス様がおっしゃったことを正確に知る必要があります。イエス様は「あなたがたが地の塩と世の光になるために生きなさい」とおっしゃったのではなく、「あなたがたは地の塩です。そしてあなたがたは世の光だ」とおっしゃったからです。
これは、私たちが塩と光になるためにどのように生きていくべきかということではなく、すでに地の塩であり、世の光なので、塩として、そして光としてそれにふさわしい役割を果たしながら生きていけということです。

1. 地の塩
塩と光は、この世で絶対になくてはならない要素です。すべての生命体は塩分と光を通じて栄養分を供給され、命を維持しているからです。もし塩分摂取ができなかったり、光がなければ命を維持することができないため、すべての生命体は絶滅することになります。
そのような意味でイエス様が私たちにおっしゃった塩と光は結局世の中で命を供給する存在になるようにおっしゃったということが分かります。
塩についておっしゃる時、イエス様が「地の塩」と仰ったのは、中東のイスラエルには 塩が海ではなく地から出るからです。イスラエルの死海の近隣地域には岩のような塩塊が たくさんあります。ある地域には塩の塊が山のように大きな峰を形成しているところもあります。この地域に住む野生動物や家畜は、これらの塩の塊を嘗めて塩分を摂取しているのです。このように塩分を摂取ができないと、結局皆命を落としてしまいます。
また、塩は食べ物の味を出す役割や腐敗を防ぐ役割など、さまざまな役割を果たします。
当時、イスラエルの女性たちは小さく切ったこの塩の塊を市場で買い、水を入れた器に漬けて塩水を作りました。この塩水でパンを練ったり、食べ物の味付けをしたり、魚を塩水に漬けたりしたのです。
そして「塩」はイスラエルの民にとって「神様との契約」を象徴するものでもあります。
[レビ記 2:13] “穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。”
[歴代誌 第二 13:5] “イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルの王国をとこしえにダビデとその子孫に与えられたことを、あなたがたが知らないはずはない。”

イスラエル民族はエジプトで救われた時から神様の民として選ばれ、イスラエルはこれから永遠に子孫代々神様だけを仕え従うと誓った民族でした。その代価として神様はイスラエルの神様としてイスラエルを守り保護してくださるとおっしゃったのです。つまり、イスラエルと神様との契約は「純潔」を内容とする契約でした。
イエス様が山上の説教を通じてイスラエルの民に想起させようとするのは、あなたがたは神様の約束の民族だということです。だから神様だけを信じて従い、世の中での問題によって恐れるなということです。

クリスチャンが神様を信じて仕えながら天国の喜びを享受して生きることは、特別な恵みであり特権です。
創造主の保護と必要なすべてのものを供給される特別な人生を生きながら、真の幸せがどこから来るのか、天国の永遠の命を受けられる道を世の中に広めながら、神様と同行する人生を生きる皆様になることを祝福します。

イエス様は神様の約束の民族が自分のアイデンティティに気づき、神様に戻ってくることを望んでおられます。世の中で見つけられない真の幸せをイエス様から受けて享受し、いかなる環境にも揺らぐことなく大胆に信仰の人生を生きていくことを願っておられます。
[ヨハネの福音書 14:27] “わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。”

そのために最も重要なことは、イエス様を人生の主人として迎え、神様の御言葉に従順に生きることが必要です。すべての命の創造者であり、供給者である神様の意思に従うのは、無限の恵みと永遠の人生を享受する天国の民としての恵まれた人生の姿だからです。
天国の民は、天国の王様である神様の御言葉に従う時、人生の真の満足を享受できるようになります。
[ヨシュア記 1:8] “このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。”

イエス様は塩が塩としての味を失えば何の役にも立たない存在になると仰いました。結局、塩味を失った塩は外に捨てられてしまうのです。そして人々に踏まれてしまいます。
[マタイの福音書 5:13] “あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

人に「踏まれる(καταπατέω)」ということは、「侮辱され、蔑視される」ということです。
クリスチャンが神様の子供としての信仰と人生の姿を失ってしまうと、このようになってしまいます。キリスト教が世の中の人々から信頼を得られず、認められない理由は、聖徒一人一人が天国の民らしく、神様の子供らしく生きていないためです。
善を行わず、むしろ自分の有益のために不義に従い、神様の視線は意識せずに人々の視線を意識して生きること、貪欲と快楽を従う人生の姿によってキリスト教は人々から不信の対象に転落してしまいました。
このような人生には神様の栄光が現れず、塩として、光としての人生とも距離がある人生の姿なのです。世の中の人々と区別された聖なる人生のために毎日信仰の人生を生きていく聖徒は天国の喜びを経験しながら生きることになるという事実を覚えておいてください。
[詩篇 4篇7-8節] “あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。8平安のうちに私は身を横たえすぐ眠りにつきます。主よただあなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。”
[詩篇 16篇11節] “あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。”

神様に選ばれた聖徒として、揺るぎない信仰の姿勢を維持し、世の中にイエス·キリストを通じた 救いの恵みを宣べ伝える天国の民になることを祝福します。 アーメン。

2. 世の光
イエス様は私たちに‘世の光だ’と仰いました。光はどんなに弱くても光です。
暗闇の中でどんなに幽かに照らしても光なのです。ですから、能力の多さとは別に、微弱だが天国の民としての私たちの光を世の中に照らす人生を生きろということです。
山の上にある村が隠れないように、闇の中にある光も隠すことができません。明かりを点した人は明るく照らそうと点したのであって、点して見えないように升の下に隠しておこうと明かりを点しません。明かりは燭台の上に置いて四方を照らすのが当然のことです。ところが、明かりを明るく照らさず、升の下に置いたように光を照らすことができない人が多いです。
神様が神様の人々の中に命の光をくださったが、この命の光を世の中に照らすことができず、色々な理由のために自分がイエス様を信じるという事実を隠して生きたり、神様の人としての行わなければならない信仰の良い行いを知りながらも行わずに生きているのです。
イエス·キリストを通じて恵みによって得た永遠の命が私たちの中にあるにもかかわらず、しばらく生きて死ぬことになる信じない人々と変わりなく生きていけば、塩気を失った塩や隠された光として生きていく姿と変わらないのです。

イエス様はこの人々にこのようにおっしゃいました。
[マルコの福音書 8:38] “だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。”

私たちは目の前の利益や一瞬の利益のために生きていく人々ではありません。永遠の御国である神様の御国を眺めながら、永遠の人生を準備しながら生きていく人々です。
天国は私たちが住んでいるこの世ではありません。神様の御国はこれ以上死もなく、痛みもなく、病気も苦痛もなく、貧富と身分の高低もない永遠の御国なのです。だから天国というのです。
天国に対する秘密と天国での生活に対する秘密は聖書の御言葉に詳しく表れています。
[イザヤ書 11:6-9] “狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。”
[ヨハネの黙示録 21:3-4] “私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」”

創造主と共に暮らすところ、破壊された創造秩序が全て回復し、最も平和で美しいところが天国なのです。そのため、クリスチャンたちは大変だったり苦しかったりしても、それを暫くの苦難と思って耐えることであり、忙しくて面倒だと言いながら人々がそっぽを向いても、私たちは他人を助けながら生きていくのです。これがすべて永遠の御国を準備する人生であり、神様のための人生だからです。
イエス様は私たちが塩としての味を出し、世の中に命の光を照らす役割をする人生を16節に見れば、「良い行い」とおっしゃいました。
[マタイの福音書 5:16] “このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためです。”

ここでの「良い行い」は倫理的、道徳的に善い行いを意味します。しかし、人々が認める水準ではなく、神様が認めるより高い水準の倫理と道徳をおっしゃったのです。
目の前の有益や楽しさのために罪を犯したり、多数の側に沿って不義を行い、弱者を無視したり、不遜に接すること、このすべてが神様に罪を犯す行動です。
不利益があっても正義の側に立つ人、自分より弱い人や足りない人を助けながら一緒に歩いていく人、しばらく生きて去ることになるこの世の中での人生に縛られず、永遠な人生を送ることになる天国を眺めながら神様だけを頼りに従う人、このような人が天国の民であり、塩と光として生きている人なのです。
私たちの「良い行い」は、創造主である神様を喜ばせ、人々にその方を崇めるようにさせてくれます。そのため、私たちは機会があるたびに善を実践しなければなりません。
キリスト者はまさにこの言葉、「良い人だ」という言葉を聞かなければ問題があるということを肝に銘じなければなりません。
もちろん、神様の御言葉(聖書)を抜け出してまで良い人だと言われるために行動する必要はありません。私たちには神様の御言葉(聖書)が一番優先され、一番高い位置だからです。
イエス様は今日の御言葉を通じて神様の聖なる民としてのアイデンティティを自覚し守って生きるようにするために「あなたがたは地の塩だ」とおっしゃって、世の中で命の道を提示し良い行いを実践するよう「あなたがたは世の光だ」とおっしゃいました。つまり、「世の中の塩と光」という御言葉は、私たちが天国の市民という身分と善を行う実践的な人生のために仰ってくださったのです。
神様の御言葉にあって私たちは世の中の法までも守り、人々との関係礼儀も守りながら、塩と光としての良い行いで、人々に神様を崇めさせるようにする天国の民になることを祝福します。アーメン。

今週も天国の民としての自負心と誇りを持って、世の中の人々と区別された聖なる人生を生きて神様に認められ約束された恵みを受ける恵まれた聖徒たちになることを、尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。 アーメン。

[お祈りいたします]
天地の創造主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。私たちが世の中の塩として真の喜びと幸せを表して生きるようにし、神様がくださった命の光を人々に照らす人生を生きて選ばれだ人々が神様に戻ってくるように導いてください。
大牟田ロゴス教会が多くの人々に神様の愛を伝え、命の光を照らす教会になり、この地が恵まれた地に変化するように恵みをあたえてください。
今週も罪悪に陥らず、聖なる人生で勝利できるように共におられてください。

イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
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