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[主日礼拝-231210] 『このように祈りなさい』 (マタイの福音書 6章9節-15節)
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logos
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2023-12-13 00:01
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『このように祈りなさい』
[マタイの福音書 6:9-15]
“9ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。10御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。11私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。12私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。13私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。”
神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。
すべての宗教には、自分たちが仕える絶対者への祈りがあります。あるの宗教は1日に何回祈るべきかについての回数や祈る形式まで教えています。
通常、祈りの内容は自分の幸せと健康、経済的な必要なことなどを祈っていて、未来の計画と人間の能力で解決できない問題なども祈りながら助けを求めています。
このような点においても、真の神様が誰なのか、自分が祈った時に実際に解決して下さり、助けて下さる神様が誰なのかについて必ず確認することが必要なのです。
そうでなければ、偽りの神に祈りながら人生の貴重な時間を無駄にすることになるからです。
まず、現存する数多くの宗教と信者を通じて崇拝されている神々について考えてみたいと思います。神になるためには基本的に備えなければならない資格条件があります。
1)人の手で作った神は絶対に神になれません。
神が人を造ることで、どうして人によって作られたものが神になれますか?
もし人によって造られたものを崇拝するなら、人よりも劣る神を崇拝しているのです。
そのような存在が人を守ってくださるということは不可能なことです。
2)また、本当の神であれば、世界中の誰もが知っているはずです。
全能の神様がどの国も一民族、一団体だけに限定されて認められ崇拝されるなら、これもまた話にならないのです。
そうなるためには、神は自ら自分の能力と知恵を通じて地球上のすべての人類に認められ崇拝を受けることができなければなりません。
3)そして、神は死を超越した存在でなければなりません。
誰かに造られることもなく、誰かを通じて生まれたわけでもなく、自ら最初から存在し、
死なずに永遠に存在する神こそ、真の神だと言えます。
もし誰かによって造られたり、生まれたりしたら、その神よりも優れた存在がいるということになるからです。
そして死の影響を受けない神であってこそ永遠に自分に従う人々を守ることができ、祈りに対する答もしてくださることができるのです。寿命が決まっている有限な存在は神とは言えません。
4)神は、何でもすることができ、そして何でも知っている方であってこそ神になれます。
神の能力に限界があったり、未来のことを正確に知らなければ、神とは言えません。
人間に真の幸福と健康、安全、必要なすべてを供給できる神は不可能なことはなく、すべてを知っている全知全能の神だけができるのです。
5)最後に、神は嘘と過ちがあってはならず、自分に従う人々と意思疎通が可能な神であってこそ、実際に存在し、生きている神だと言えます。
神は自分の言葉に嘘があってはならず、自分が約束したことに対しては必ず約束を守る神でなければ信じて従うことができず、また神は過ちがあってはなりません。人間は過ちを犯すことができますが、神が過ちを犯すことは想像もできません。
宇宙と自然世界の秩序を見ると、精巧に維持されている秩序が存在することが分かります。もし神が過ちをする存在なら、自然世界の秩序がこれほど長く維持されることはなかったでしょう。ですから、神はすべての言葉と行いにおいて最も完璧で一寸の誤りもない方が真の神になれるのです。
そして、神は人間に自分が望むすべてのことに対して正確に意思を伝え、人間が知って従うことができるように交流が可能でなければなりません。そうしてこそ、神が望む人生を満たすことができ、それによって人間は幸せを享受しながら生きることになるからです。
このようなすべての条件を備えた神であってこそ、宇宙万物を直接治める神として、絶対的な力を持った真の神として信じて私たちが従うことができるのです。
地球上でこのすべての条件を備えた神は聖書に登場する創造主である、エホバ神様しかいません。
エホバ神様は天と地を造り、宇宙とその中にあるすべてのものを創造し、人と動物を含めて目に見えないものまで創造された方です。そして宇宙のすべての秩序を直接治めながら維持させる方です。
神様はすべてをご存じの方で、すべてができる創造主です。
[イザヤ書 45:18] “天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。「わたしは主。ほかにはいない。”
信仰と従順の人生を通じて創造主神様を毎日経験する皆様になることを祝福します。
今日は創造主神様が私たちのためにこの世に送られたイエス·キリストがお祈りについて教えてくださる内容です。
お祈りはイエス·キリストを信じる聖徒たちに与えた特別な権利であり、恵みの手段です。イエス様を信じない人はいくら祈っても神様が聞いてくださらなく、神様が下さるすべての恵みを受けることも享受することもできないです。ただイエス様を信じて神様の子供になった人々だけがお祈りに対する神様の答えと恵みを受けることができます。
では、お祈りはどのようにするのか、聖書本文の内容から見ていきましょう。
♣お祈りの方式
一般的に、お祈りする時は目を閉じて切実な心で神様に懇願しますが、場合によっては目を開けて行う時もあります。重要なことは、懇願する人の信仰と切実な心が神様に捧げられなければならないということです。
そして、お祈りを終える時は、「イエス様の御名によってお祈りをお捧げます。(いたします) 「アーメン」と言い、お祈りを終えます。
イエス様のお名前で祈らなければならない理由は、イエス様が私たちの罪に代わって死ぬことで罪の問題を解決してくださった方だからであり、イエス様もこのように祈るように直接おっしゃったためです。
[ヨハネの福音書 14:13-14] “またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。”
イエス様は、私たちが受けなければならない罪の代価を代わりに受け取って死んで下さり、3日目になる日に再び生き返って私たちに永遠の命を受けるように救って下さった方です。それでイエス様のお名前で祈りなさいと仰ったのです。
そして「アーメン(ןאָ)」は「本当に、まことに、確かに、まさに」を意味する言葉で、「そうしてくださると信じています」という意味です。
「私たちがお祈りした通りに叶えてくださることを信じます。」という意味です。
イエス様は、一生前を見ることができずに生きていた盲人たちがイエス様に訪ねて来て
‘見られるようにしてほしい’と懇願すると、"あなたがたの信仰のとおりになれ"と仰いました。
実際、彼らはイエス様の御言葉を信じたので、目を開けて前を見るようになりました。
[マタイの福音書 9:29] “そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。”
ロゴス教会のすべての聖徒たちの人生にも「望むことが信じる通りになされる惠み」があることを願います。
本日、本文の内容である「主の祈り」は、弟子たちがイエス様に「主よ、私たちに祈りを教えてください」と懇願すると、イエス様が弟子たちに「このように祈りなさい」と教えてくださった内容です。
[ルカの福音書 11:1] “さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」”
まず、イエス様が教えてくださったこの祈祷文は、まるで呪文のようにすらすら覚えても、良いことがあったり、問題が解決される祈祷文ではありません。
イエス様が教えてくださったこの主の祈りは、文字通り真似しろというよりは、祈りの原理を教えてくださったと見ることができます。
ですから、「祈るときはこのような原理で祈りなさい」という意味で教えてくださったのです。
主の祈祷文の構成を見ると、祈祷の対象である神様に対する呼称と、6つの祈祷文形式になっています。
前の部分には「神様の栄光」のために求める3つの祈りがあり、後ろの部分には「聖徒にとって霊的·肉的に必要なもの」を求める3つの祈りで構成されています。
その内容を見てみましょう。
1)“あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。”(9節)
イエス様は弟子たちに祈る時はまず、「天にいらっしゃる私たちの父よ」と神様を呼ぶことでお祈りの対象を明確にするようにおっしゃっています。
旧約時代から神様は選んだ民に父と呼ばれ、選ばれた民を守ってくださる方として現れています。
神様を天にいらっしゃる方として描写したのは、神様の神聖さと超越性を暗示するためです。神様は被造物である人間と明確に区別される方として、その御名もまた「神々しく区別」される方です。
神様はモーセの十戒を通じてエホバ神様の御名をみだりに口にする人を罪を犯すことと 見なすと仰いました。
[出エジプト記 20:7] “あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。”
この祈りは神様が被造物とは明確に区別される方だということを明らかにする内容でお祈りの対象が誰なのかを確かに知らせる内容です。お祈りの対象は天地万物を創造された、
天にいらっしゃるエホバ神様であるということです。驚くべき事実は、その聖なる神様が
私たちの父であるということです。
イエス様を信じる前は神様の仇であり、罪によって地獄の刑罰を受ける私たちでしたが、
イエス様を信じる瞬間から私たちは神様の子供たちになりました。
[ヨハネの福音書 1:12] “しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。”
命を与え、今まで、そしてこれからも永遠に私たちを保護し、食べさせ、着せる父なるの神様を呼び、お祈りする皆さんになることを願います。
2) “御国が来ますように。”(10節)
直訳すると「あなたの御国が来るようにしてください」です。
このお祈りは神様の御国と統治がこの地に臨めるようにしてほしいというお祈りです。
イエス様が仰った「神様の御国」とは、「神様が統治する御国」のことであり、イエス·キリストを信仰によって永遠に救われた人々が神様の統治を受け、完全に従順な生活を送ることを言います。このようにイエス·キリストを信じて従順な人生を送る聖徒たちがいるところはすべて神様の御国なのです。イエス様はこのように神様の治めと統治に服従する人々が多く現れるように祈るようにとおっしゃったのです。
この事のためには、まず私たち自身から神様の治めと統治に従う人にならなければなりません。神様の御国の民としての適当な姿を備えられるように、神様の御言葉に完全に従う皆さんになることを願います。
神様の統治がこの地に実現すれば、神様の義が満ち、平和が臨むことになります。
不義と不公平、不平等が消え、すべての人が公平で平等に生きていける環境になることは、神様の御国がこの世に臨む時に可能です。このような日が早く来るように、日々祈る皆さんになることを願います。
3) ”みこころが天で行われるように、地でも行われますように。”(10節)
このお祈りは「神様のみこころが 天と地で」すべて、行われることを切にお祈りすることです。この「地」は罪悪に満ちた世の中であり、人々は神様の意思よりは自分の意思に従って行い、欲に従ってやりたいように行い、生きています。そのため、世の中にはあらゆる犯罪と嫉みと妬み、争いが絶えず起こります。
このような世の中が天国のように愛に満ちて平安に満ちた世の中になるように祈りなさいということです。
神様の意思は世の中の人々が互いに愛し合って善を行い、神様が下さる恵みと祝福を享受して生きていくことです。また神様の究極的な意思は選んだ子供たちの救いです。
神様に選ばれた子供たちが「罪と死亡の権勢から完全に解放され、これ以上痛みも悲しみもなく死もない人生を早く成し遂げられること」を願う意味で、神様の御心が天のようにこの地でも成し遂げられるようにしてくださいと祈りなさいということです。
真の幸せと平安を享受する人生は、神様の意思がこの地に行われる時に可能だという事実を信じてください。
4) “私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。”(11節)
主の祈りの残りの3つの內容は祈る人に必要なことを含んでおり、自分のための祈りは 肉体の命を維持する上で最も重要な糧食を求める祈りを一番先にするようにしました。
これは私たちの弱さをご存じの主がその必要に応じて供給してくださるが, お祈りを通じて明らかな出所が神様から与えられたことを知らせるためのことです。
また糧食を求める祈りは一日の使う糧だけ求めるようにしましたが、これは多かれ少なかれ私たちは神様に依存するしかない存在であることを知り、毎日、神様だけを頼りに生きるようにするためです。
私たちのすべての必要なことをご存じの主が毎日供給してくださる恵みを経験しながら生きていく祈りの人々になることを祝福します。
5) “私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。”(12節)
次の主の祈りは私たちの罪に対するもので、神様から罪を赦されるためには、私たちに 罪を犯した人に対する赦しが先になければならないということを教えてくださっています。これは赦しと和解、愛を実践する人生を通じて、この地で生きている間、紛争と争いのない天国での生活を準備するようにすることでもあります。このような人生のために私たちはイエス·キリストの十字架の御恵みによって神様にすべての罪を赦された人々だということを忘れてはなりません。
[エペソ人への手紙 2:3-5] “私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。”
イエス様は他人の過ちを赦すことが自分の過ちに対する赦しとつながるという点を教えてくださっています。
[マタイの福音書 6:14-15] “もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。”
他人の過ちを赦す寛大な心は、イエス様の御恵みによって赦しを受けた自分の姿を想起する時に実践することが可能になります。御恵みによって救われた恵まれた人生にいつも感謝し、御言葉に従う皆さんになることを願います。
6) “私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください”(13節)
「試み」(πειρασμός́)は肯定的な意味では「試験」(test)、「試練」(trial)の意味で使われますが、肯定的な意味としての「試験」(test)は信仰が揺れるほどの厳しい試練を指すもので、神様があなたの民を訓練させる教育的な手段を言います。
しかし、否定的な意味としての「試み」は悪魔サタンから来るものであり、罪の「誘惑」を意味します。罪悪に陥れるための計略のことです。
本文のこの6つ目のお祈りでの「試み」は否定的な意味で、悪魔サタンの誘惑を指す内容です。日常生活において、クリスチャンたちが受ける全ての誘惑を指すのです。
したがって、このお祈りは「私たちがサタンの誘惑に陥らないようにお守りください」という意味になります。
サタンの巧妙な誘惑はイエス様の弟子たちと、ひいては全てのクリスチャンのアイデンティティを脅かすことなので、祈る度に誘惑を退けてほしいと切に求めなければなりません。
誘惑は霊的な勢力から来るものなので、人間的な力では勝てない性格のものです。
日々私たちの心を惑わせ堕落するよう誘惑するサタンの試みは、イエス様に向けた正しく堅固な信仰がある時に乗り越えることができます。
聖書は悪魔サタンが吼えたける獅子のように、神様の人々を食い尽くそうと探し回っていますが、信仰に固く立って悪魔を対敵しなさいと仰っています。
[ペテロの手紙 第一 5:8-9] “身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。”
私たちが罪を犯して、試み(誘惑)に陥ることになるのはサタンの計略であり、神様がされたのではありません。神様は誰にも罪を犯すように試み(誘惑)しません。
[ヤコブの手紙 1:13-15] “だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。14人が誘惑にあうのは、それぞれ 自分の欲に引かれ、誘われるからです。15 そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。”
そして、私たちが世の中で生きながら、試みを受けざるを得ませんが、試みを受けた時、克服することはできます。
[コリント人への手紙 第一 10:13] “あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。”
したがって、私たちが祈るにあたって肝に銘じなければならないことは、神様の意思を私たちの意思に合わせることにあるのではなく、私たちの意思を神様の意思と調和するように曲げることにあるということです。
すなわち、私たちが望むことがなされるように固執するのではなく、ただ神様の善良な意思がなされることを求めることであることに格別に注意して祈らなければならないのです。
今日、イエス様が私たちに教えてくださったお祈りは次の通りです。
1) 私たちが祈る対象は '天にいらっしゃる 私たちの父'、すなわち天地万物を創造し直接治めるエホバ神様お一人様だけという事実を明確に告白し、聖なる神様の御名がより一層高まることを祈ることです。
2)この世に神様の御国と統治が来るようにしてくださって、不義と不公平、争いと戦争が消え、神様の義と真の平和がなされるようにすることを祈るのです。
3)この地の上に神様の救いの計画を早く叶えて下さり、痛みも悲しみもなく、死もない完全な人生を生きていける日が来るように祈ることです。
4)私たちに不足なく、毎日食べる養殖を供給してくださる神様を完全に頼りにし、世の中の誘惑と欲を追わずに生きていけるようにしてくださることを祈ることです。
5)神様の慈悲深い愛で私たちがすべての罪を赦されたことに気づき、その愛を力になって
他人の過ちを赦す寛大な心を持って生きていくように祈ることです。
6)日常の生活でサタンが誘惑する全ての罪の誘惑に勝て、神様が嫌がるすべての罪から救われることを祈ることです。
イエス様が教えてくださったお祈りの原理に従って、正しい祈祷生活と正しい心構えで
神様の御惠みを毎日経験する福々しい聖徒になることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。
[お祈りいたします]
天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
私たちの人生が神様の意思を叶えるための人生になるようにしてくださり、尊い神様の御名がさらに高まるように信仰と従順の人生を正しく生きる天国の民になるようにしてください。
世の中の人々の価値観に従って生きるのではなく、ただ神様への信仰と聖書的な価値観を持って聖なる人生を生きていけるように助けてください。
私たちが祈るすべてのことに答えてくださって、生きておられる神様を経験し、より堅固な信仰の人生を送らせ、多くの人々に神様を誇りに生きる聖徒になるようにしてください。
今週も神様の保護と導かれる恵みの中で生きていく福々しい週間になるようにし、罪に陥らないように私たちを守って下さい。
イエス様の御名によってお祈りいたします. アーメン。
[マタイの福音書 6:9-15]
“9ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。10御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。11私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。12私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。13私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』14もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。”
神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。
すべての宗教には、自分たちが仕える絶対者への祈りがあります。あるの宗教は1日に何回祈るべきかについての回数や祈る形式まで教えています。
通常、祈りの内容は自分の幸せと健康、経済的な必要なことなどを祈っていて、未来の計画と人間の能力で解決できない問題なども祈りながら助けを求めています。
このような点においても、真の神様が誰なのか、自分が祈った時に実際に解決して下さり、助けて下さる神様が誰なのかについて必ず確認することが必要なのです。
そうでなければ、偽りの神に祈りながら人生の貴重な時間を無駄にすることになるからです。
まず、現存する数多くの宗教と信者を通じて崇拝されている神々について考えてみたいと思います。神になるためには基本的に備えなければならない資格条件があります。
1)人の手で作った神は絶対に神になれません。
神が人を造ることで、どうして人によって作られたものが神になれますか?
もし人によって造られたものを崇拝するなら、人よりも劣る神を崇拝しているのです。
そのような存在が人を守ってくださるということは不可能なことです。
2)また、本当の神であれば、世界中の誰もが知っているはずです。
全能の神様がどの国も一民族、一団体だけに限定されて認められ崇拝されるなら、これもまた話にならないのです。
そうなるためには、神は自ら自分の能力と知恵を通じて地球上のすべての人類に認められ崇拝を受けることができなければなりません。
3)そして、神は死を超越した存在でなければなりません。
誰かに造られることもなく、誰かを通じて生まれたわけでもなく、自ら最初から存在し、
死なずに永遠に存在する神こそ、真の神だと言えます。
もし誰かによって造られたり、生まれたりしたら、その神よりも優れた存在がいるということになるからです。
そして死の影響を受けない神であってこそ永遠に自分に従う人々を守ることができ、祈りに対する答もしてくださることができるのです。寿命が決まっている有限な存在は神とは言えません。
4)神は、何でもすることができ、そして何でも知っている方であってこそ神になれます。
神の能力に限界があったり、未来のことを正確に知らなければ、神とは言えません。
人間に真の幸福と健康、安全、必要なすべてを供給できる神は不可能なことはなく、すべてを知っている全知全能の神だけができるのです。
5)最後に、神は嘘と過ちがあってはならず、自分に従う人々と意思疎通が可能な神であってこそ、実際に存在し、生きている神だと言えます。
神は自分の言葉に嘘があってはならず、自分が約束したことに対しては必ず約束を守る神でなければ信じて従うことができず、また神は過ちがあってはなりません。人間は過ちを犯すことができますが、神が過ちを犯すことは想像もできません。
宇宙と自然世界の秩序を見ると、精巧に維持されている秩序が存在することが分かります。もし神が過ちをする存在なら、自然世界の秩序がこれほど長く維持されることはなかったでしょう。ですから、神はすべての言葉と行いにおいて最も完璧で一寸の誤りもない方が真の神になれるのです。
そして、神は人間に自分が望むすべてのことに対して正確に意思を伝え、人間が知って従うことができるように交流が可能でなければなりません。そうしてこそ、神が望む人生を満たすことができ、それによって人間は幸せを享受しながら生きることになるからです。
このようなすべての条件を備えた神であってこそ、宇宙万物を直接治める神として、絶対的な力を持った真の神として信じて私たちが従うことができるのです。
地球上でこのすべての条件を備えた神は聖書に登場する創造主である、エホバ神様しかいません。
エホバ神様は天と地を造り、宇宙とその中にあるすべてのものを創造し、人と動物を含めて目に見えないものまで創造された方です。そして宇宙のすべての秩序を直接治めながら維持させる方です。
神様はすべてをご存じの方で、すべてができる創造主です。
[イザヤ書 45:18] “天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、これを堅く立てた方、これを茫漠としたものとして創造せず、住む所として形造った方、まことに、この主が言われる。「わたしは主。ほかにはいない。”
信仰と従順の人生を通じて創造主神様を毎日経験する皆様になることを祝福します。
今日は創造主神様が私たちのためにこの世に送られたイエス·キリストがお祈りについて教えてくださる内容です。
お祈りはイエス·キリストを信じる聖徒たちに与えた特別な権利であり、恵みの手段です。イエス様を信じない人はいくら祈っても神様が聞いてくださらなく、神様が下さるすべての恵みを受けることも享受することもできないです。ただイエス様を信じて神様の子供になった人々だけがお祈りに対する神様の答えと恵みを受けることができます。
では、お祈りはどのようにするのか、聖書本文の内容から見ていきましょう。
♣お祈りの方式
一般的に、お祈りする時は目を閉じて切実な心で神様に懇願しますが、場合によっては目を開けて行う時もあります。重要なことは、懇願する人の信仰と切実な心が神様に捧げられなければならないということです。
そして、お祈りを終える時は、「イエス様の御名によってお祈りをお捧げます。(いたします) 「アーメン」と言い、お祈りを終えます。
イエス様のお名前で祈らなければならない理由は、イエス様が私たちの罪に代わって死ぬことで罪の問題を解決してくださった方だからであり、イエス様もこのように祈るように直接おっしゃったためです。
[ヨハネの福音書 14:13-14] “またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。14あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。”
イエス様は、私たちが受けなければならない罪の代価を代わりに受け取って死んで下さり、3日目になる日に再び生き返って私たちに永遠の命を受けるように救って下さった方です。それでイエス様のお名前で祈りなさいと仰ったのです。
そして「アーメン(ןאָ)」は「本当に、まことに、確かに、まさに」を意味する言葉で、「そうしてくださると信じています」という意味です。
「私たちがお祈りした通りに叶えてくださることを信じます。」という意味です。
イエス様は、一生前を見ることができずに生きていた盲人たちがイエス様に訪ねて来て
‘見られるようにしてほしい’と懇願すると、"あなたがたの信仰のとおりになれ"と仰いました。
実際、彼らはイエス様の御言葉を信じたので、目を開けて前を見るようになりました。
[マタイの福音書 9:29] “そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。”
ロゴス教会のすべての聖徒たちの人生にも「望むことが信じる通りになされる惠み」があることを願います。
本日、本文の内容である「主の祈り」は、弟子たちがイエス様に「主よ、私たちに祈りを教えてください」と懇願すると、イエス様が弟子たちに「このように祈りなさい」と教えてくださった内容です。
[ルカの福音書 11:1] “さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」”
まず、イエス様が教えてくださったこの祈祷文は、まるで呪文のようにすらすら覚えても、良いことがあったり、問題が解決される祈祷文ではありません。
イエス様が教えてくださったこの主の祈りは、文字通り真似しろというよりは、祈りの原理を教えてくださったと見ることができます。
ですから、「祈るときはこのような原理で祈りなさい」という意味で教えてくださったのです。
主の祈祷文の構成を見ると、祈祷の対象である神様に対する呼称と、6つの祈祷文形式になっています。
前の部分には「神様の栄光」のために求める3つの祈りがあり、後ろの部分には「聖徒にとって霊的·肉的に必要なもの」を求める3つの祈りで構成されています。
その内容を見てみましょう。
1)“あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。”(9節)
イエス様は弟子たちに祈る時はまず、「天にいらっしゃる私たちの父よ」と神様を呼ぶことでお祈りの対象を明確にするようにおっしゃっています。
旧約時代から神様は選んだ民に父と呼ばれ、選ばれた民を守ってくださる方として現れています。
神様を天にいらっしゃる方として描写したのは、神様の神聖さと超越性を暗示するためです。神様は被造物である人間と明確に区別される方として、その御名もまた「神々しく区別」される方です。
神様はモーセの十戒を通じてエホバ神様の御名をみだりに口にする人を罪を犯すことと 見なすと仰いました。
[出エジプト記 20:7] “あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。”
この祈りは神様が被造物とは明確に区別される方だということを明らかにする内容でお祈りの対象が誰なのかを確かに知らせる内容です。お祈りの対象は天地万物を創造された、
天にいらっしゃるエホバ神様であるということです。驚くべき事実は、その聖なる神様が
私たちの父であるということです。
イエス様を信じる前は神様の仇であり、罪によって地獄の刑罰を受ける私たちでしたが、
イエス様を信じる瞬間から私たちは神様の子供たちになりました。
[ヨハネの福音書 1:12] “しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。”
命を与え、今まで、そしてこれからも永遠に私たちを保護し、食べさせ、着せる父なるの神様を呼び、お祈りする皆さんになることを願います。
2) “御国が来ますように。”(10節)
直訳すると「あなたの御国が来るようにしてください」です。
このお祈りは神様の御国と統治がこの地に臨めるようにしてほしいというお祈りです。
イエス様が仰った「神様の御国」とは、「神様が統治する御国」のことであり、イエス·キリストを信仰によって永遠に救われた人々が神様の統治を受け、完全に従順な生活を送ることを言います。このようにイエス·キリストを信じて従順な人生を送る聖徒たちがいるところはすべて神様の御国なのです。イエス様はこのように神様の治めと統治に服従する人々が多く現れるように祈るようにとおっしゃったのです。
この事のためには、まず私たち自身から神様の治めと統治に従う人にならなければなりません。神様の御国の民としての適当な姿を備えられるように、神様の御言葉に完全に従う皆さんになることを願います。
神様の統治がこの地に実現すれば、神様の義が満ち、平和が臨むことになります。
不義と不公平、不平等が消え、すべての人が公平で平等に生きていける環境になることは、神様の御国がこの世に臨む時に可能です。このような日が早く来るように、日々祈る皆さんになることを願います。
3) ”みこころが天で行われるように、地でも行われますように。”(10節)
このお祈りは「神様のみこころが 天と地で」すべて、行われることを切にお祈りすることです。この「地」は罪悪に満ちた世の中であり、人々は神様の意思よりは自分の意思に従って行い、欲に従ってやりたいように行い、生きています。そのため、世の中にはあらゆる犯罪と嫉みと妬み、争いが絶えず起こります。
このような世の中が天国のように愛に満ちて平安に満ちた世の中になるように祈りなさいということです。
神様の意思は世の中の人々が互いに愛し合って善を行い、神様が下さる恵みと祝福を享受して生きていくことです。また神様の究極的な意思は選んだ子供たちの救いです。
神様に選ばれた子供たちが「罪と死亡の権勢から完全に解放され、これ以上痛みも悲しみもなく死もない人生を早く成し遂げられること」を願う意味で、神様の御心が天のようにこの地でも成し遂げられるようにしてくださいと祈りなさいということです。
真の幸せと平安を享受する人生は、神様の意思がこの地に行われる時に可能だという事実を信じてください。
4) “私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。”(11節)
主の祈りの残りの3つの內容は祈る人に必要なことを含んでおり、自分のための祈りは 肉体の命を維持する上で最も重要な糧食を求める祈りを一番先にするようにしました。
これは私たちの弱さをご存じの主がその必要に応じて供給してくださるが, お祈りを通じて明らかな出所が神様から与えられたことを知らせるためのことです。
また糧食を求める祈りは一日の使う糧だけ求めるようにしましたが、これは多かれ少なかれ私たちは神様に依存するしかない存在であることを知り、毎日、神様だけを頼りに生きるようにするためです。
私たちのすべての必要なことをご存じの主が毎日供給してくださる恵みを経験しながら生きていく祈りの人々になることを祝福します。
5) “私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。”(12節)
次の主の祈りは私たちの罪に対するもので、神様から罪を赦されるためには、私たちに 罪を犯した人に対する赦しが先になければならないということを教えてくださっています。これは赦しと和解、愛を実践する人生を通じて、この地で生きている間、紛争と争いのない天国での生活を準備するようにすることでもあります。このような人生のために私たちはイエス·キリストの十字架の御恵みによって神様にすべての罪を赦された人々だということを忘れてはなりません。
[エペソ人への手紙 2:3-5] “私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。”
イエス様は他人の過ちを赦すことが自分の過ちに対する赦しとつながるという点を教えてくださっています。
[マタイの福音書 6:14-15] “もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。”
他人の過ちを赦す寛大な心は、イエス様の御恵みによって赦しを受けた自分の姿を想起する時に実践することが可能になります。御恵みによって救われた恵まれた人生にいつも感謝し、御言葉に従う皆さんになることを願います。
6) “私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください”(13節)
「試み」(πειρασμός́)は肯定的な意味では「試験」(test)、「試練」(trial)の意味で使われますが、肯定的な意味としての「試験」(test)は信仰が揺れるほどの厳しい試練を指すもので、神様があなたの民を訓練させる教育的な手段を言います。
しかし、否定的な意味としての「試み」は悪魔サタンから来るものであり、罪の「誘惑」を意味します。罪悪に陥れるための計略のことです。
本文のこの6つ目のお祈りでの「試み」は否定的な意味で、悪魔サタンの誘惑を指す内容です。日常生活において、クリスチャンたちが受ける全ての誘惑を指すのです。
したがって、このお祈りは「私たちがサタンの誘惑に陥らないようにお守りください」という意味になります。
サタンの巧妙な誘惑はイエス様の弟子たちと、ひいては全てのクリスチャンのアイデンティティを脅かすことなので、祈る度に誘惑を退けてほしいと切に求めなければなりません。
誘惑は霊的な勢力から来るものなので、人間的な力では勝てない性格のものです。
日々私たちの心を惑わせ堕落するよう誘惑するサタンの試みは、イエス様に向けた正しく堅固な信仰がある時に乗り越えることができます。
聖書は悪魔サタンが吼えたける獅子のように、神様の人々を食い尽くそうと探し回っていますが、信仰に固く立って悪魔を対敵しなさいと仰っています。
[ペテロの手紙 第一 5:8-9] “身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9 堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。”
私たちが罪を犯して、試み(誘惑)に陥ることになるのはサタンの計略であり、神様がされたのではありません。神様は誰にも罪を犯すように試み(誘惑)しません。
[ヤコブの手紙 1:13-15] “だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。14人が誘惑にあうのは、それぞれ 自分の欲に引かれ、誘われるからです。15 そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。”
そして、私たちが世の中で生きながら、試みを受けざるを得ませんが、試みを受けた時、克服することはできます。
[コリント人への手紙 第一 10:13] “あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。”
したがって、私たちが祈るにあたって肝に銘じなければならないことは、神様の意思を私たちの意思に合わせることにあるのではなく、私たちの意思を神様の意思と調和するように曲げることにあるということです。
すなわち、私たちが望むことがなされるように固執するのではなく、ただ神様の善良な意思がなされることを求めることであることに格別に注意して祈らなければならないのです。
今日、イエス様が私たちに教えてくださったお祈りは次の通りです。
1) 私たちが祈る対象は '天にいらっしゃる 私たちの父'、すなわち天地万物を創造し直接治めるエホバ神様お一人様だけという事実を明確に告白し、聖なる神様の御名がより一層高まることを祈ることです。
2)この世に神様の御国と統治が来るようにしてくださって、不義と不公平、争いと戦争が消え、神様の義と真の平和がなされるようにすることを祈るのです。
3)この地の上に神様の救いの計画を早く叶えて下さり、痛みも悲しみもなく、死もない完全な人生を生きていける日が来るように祈ることです。
4)私たちに不足なく、毎日食べる養殖を供給してくださる神様を完全に頼りにし、世の中の誘惑と欲を追わずに生きていけるようにしてくださることを祈ることです。
5)神様の慈悲深い愛で私たちがすべての罪を赦されたことに気づき、その愛を力になって
他人の過ちを赦す寛大な心を持って生きていくように祈ることです。
6)日常の生活でサタンが誘惑する全ての罪の誘惑に勝て、神様が嫌がるすべての罪から救われることを祈ることです。
イエス様が教えてくださったお祈りの原理に従って、正しい祈祷生活と正しい心構えで
神様の御惠みを毎日経験する福々しい聖徒になることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。
[お祈りいたします]
天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
私たちの人生が神様の意思を叶えるための人生になるようにしてくださり、尊い神様の御名がさらに高まるように信仰と従順の人生を正しく生きる天国の民になるようにしてください。
世の中の人々の価値観に従って生きるのではなく、ただ神様への信仰と聖書的な価値観を持って聖なる人生を生きていけるように助けてください。
私たちが祈るすべてのことに答えてくださって、生きておられる神様を経験し、より堅固な信仰の人生を送らせ、多くの人々に神様を誇りに生きる聖徒になるようにしてください。
今週も神様の保護と導かれる恵みの中で生きていく福々しい週間になるようにし、罪に陥らないように私たちを守って下さい。
イエス様の御名によってお祈りいたします. アーメン。
合計 89
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
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福音とは何ですか?
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2023.09.08
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New [主日礼拝-250420]『イエス様の復活』(ルカの福音書 24:1-12)_復活主日_聖餐式
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2025.04.20
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[主日礼拝-250413]『十字架を通したメッセージ』(イザヤ書 53章1節-6節)_受難週間
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2025.04.14
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[主日礼拝-250406]『小さい者のための心遣い』(マタイの福音書 18章5節-10節)
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2025.04.06
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[主日礼拝-250330]『子供のような信仰』(マタイの福音書 18章1節-4節)
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2025.03.30
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[主日礼拝-250323]『神殿税を納めた理由』(マタイの福音書 17章22節-27節)
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2025.03.24
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[主日礼拝-250316] 『大きな信仰の人になるために』(マタイの福音書 17章14節-20節)
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2025.03.17
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82 |
[主日礼拝-250309]『キリストの栄光を見た弟子たち』(マタイの福音書 17章1節-13節)
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2025.03.10
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[主日礼拝-250302]『私について来たいと思うなら』(マタイの福音書 16章21節-27節)
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2025.03.02
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[主日礼拝-250223] 『あなたは私を誰だと言いますか』(マタイの福音書 16章13節-17節)
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79 |
[主日礼拝-250216] 『信仰の告白(2)』 (マタイの福音書 16章13節-17節)
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2025.02.16
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