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[主日礼拝-240114] 『神様のお世話と信仰の生活』(マタイの福音書 6章25節-34節)

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logos
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2024-01-16 23:52
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『神様のお世話と信仰の生活』

[マタイの福音書 6:25-34]
“25ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。31ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。”


神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。

過去の旧約時代に神様の民であるイスラエルが最も繁盛し、豊かな恵みを享受して暮らした時期は、神様の恵みを渇望し、神様の御言葉を渇望する時でした。
私たちもただ神様の恵みを渇望し、神様の御言葉を渇望し、豊かな恵みを享受して生きていくことを願います。

皆さんは信仰生活の目的は何だと思いますか。イエス·キリストを信じて、このように神様に礼拝をしながら信仰生活をする理由は何のためですか。
信仰生活の第一の目的は、「神様の審判から救われ、天国で永遠の人生を生きるため」です。
地獄での生活と天国での生活はあまりにも大きな違いがあります。
私がイエス様を信じない方々に伝道をしてみるとある人は、「天国はどこにありますか。」、「天国に行ったことがありますか。」とおっしゃる方がたまにいます。死ぬ前には行けないところなのに、天国があるのか地獄があるのかどうやって分かるということです。
しかし、世の中には目に見えませんが、実際に存在するものはどれくらいありますか。虚空に漂う細菌やウイルスなどは目に見えませんが、明らかに存在しています。風や酸素、時間なども目で見ることができないものですが、存在することを私たちは知っています。
このように天国と地獄もまた私たちが目で見られるところではありませんが、実際に存在するということです。一国や部族に限った話でもなく、世界中で数多くの人々が同じ内容を強調する時は、もう少し深く考えてみるといいのですが、自分が知らないと無視してしまう方々を見ると残念な気持ちになります。人々は、科学や医学の研究を通じて発表された内容を概ね信頼しています。たまにこのような研究発表にも誤りや虚偽情報が現れることもありますが、概して信頼する方です。
しかし、その人々は聖書の記録は信頼していません。聖書に記録された内容は一つも虚偽や誤った内容がないにもかかわらず、人々が信頼しないものです。これは聖書を宗教経典としてのみ考え、聖書に現れる歴史性に対する内容を無視するためです。聖書を疑いの目で見ると、どんな内容でも信じられません。私たちは信仰の目で聖書を見ながら、神様が仰る御言葉に従って生きていかなければならないということを記憶しなければなりません。宇宙にある数多くの惑星に行ったことはありませんが、天体望遠鏡のようなもので その存在と形、表面の状況のようなものを見ることができたので、私たちがその惑星がどんな惑星なのか分かるように、過去に神様が行った数多くの御業と約束と予言などが記録されている聖書を通じて命の起源と宇宙万物の起源も知ることができ、そしてこの世と人々が最後にどうなるということも分かることができるのです。聖書が神様と次の世界を見られる天体望遠鏡のような役割をしてくれるからです。信仰の目で聖書を見て、その中に約束されたイエス·キリストを通じた救いの恵みを享受することを祝福します。

第二に、信仰生活を送る目的は、この世で生きている間、平安でできるだけ苦痛なく生きてほしいからです。
言い換えれば、自分と愛する家族の健康と幸せな人生のために信仰生活をするということです。
神様は世の中を創造してから、ただ自然摂理に従って維持されるよう放置されたのではなく、ご自分の特別な計画と目的に従って直接治めながら導いていくということを信じてください。今日の本文の御言葉にも現れますが、すべての命の誕生と死は今まで、そして今後も永遠に神様の意思によって、つまり神様が決めた時と時期によって生と死を迎えることになるのです。命を創造された創造主の思い通りに維持され消滅するのは不思議なことではなく、当然の道理だからです。
このような理由のために私たちは創造主である神様に仕え、その方の御言葉に従って、私たちのためにこの世に来られたイエス·キリストを信じて従うのです。
本文の内容を見ながら、神様が望む意味と私たちに向けられた愛を悟る皆さんになることを願います。

人々が生きていく中で一番心配していることは何でしょうか。古代時代から人類は食べていく問題によって戦争と殺人を行いながら生きてきました。それだけ衣食住の問題が重要な問題だったからです。
いつからこれらの懸念が人々の生活において重要な問題になったのでしょうか。エデンの園から追い出されてからです。聖書の創世記によれば、アダム(ם󰕇אָ/ʾΑδάμ)とエバ(ה󰕶󰖏/Εὕα)が神様の命令に従わず、悪魔サタンの言葉を信頼して善悪の知識の木の実を食べることになります。この事件の結果、アダムとエバは神様から罰を受けましたが、アダムは顔に汗が出るほど労働をしてこそ食べ物を手に入れることができ、エバは子を産む苦しみを罰として受けることになりました。
そして二人はエデンの園から追い出され、この世で子供を産んで暮らすことになります。

[創世記 3:16-19] “女にはこう言われた。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」17また、人に言われた。「あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。18大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。19あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」”

この内容を通じて、私たちは男と女、すなわちアダムとエバの子孫であるすべての人類がアダムとエバの罪によって受けた罰を今までも受け継いで苦労して人生を生きていることが分かります。これは神様がこの世を治めているという証拠でもあります。
罪を犯して追い出されたアダムとエバの子供たちは互いに殺し合い、戦いを繰り広げたりもしました。このような姿が、これまで人類のあらゆる歴史の中で繰り返されているのです。神様に犯罪を犯せば苦痛の中で生きていくということが聖書を通じておっしゃる神様の教えであり教訓なのです。したがって、神様の御言葉である聖書を信仰で見て、聞いて、学び、神様の意思に従って生きていくことが最も平安で幸せな人生を生きていくことであることを信じてください。

1. 神様のお世話を信じる人生

今日の御言葉でイエス様は、食べて生く問題によって「心配するな」と仰っています。人が生きていく中で一日でも心配しない日があるかを考えると、ほとんどないようです。すべてのこと一つ一つがあらゆる心配になることだけだからです。
ところが、このような懸念は神様を信じられない不信仰から来るということを知らなければなりません。人は生まれてから神様のお世話によって生きていく存在ですが、このような神様のお世話を疑うことから心配が始まるからです。

[マタイの福音書 6:26-30] “26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。29しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。30今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。”

「空の鳥やしばらく咲いて枯れる野花も神様がこのように食べさせて着せるのに、況して あなたがたなのか。」 イエス様のため息をつく御言葉です。‘ただの微物よりもあなたがたはもっと大切で貴重なのに、なぜ心配するのか。’ということです。
この内容は世の中のすべての被造物の中で人を最も愛し大切にする神様の心を知らせてくださる内容です。何よりも神様が大切にして愛する人は神様の形として創造された特別な存在だからです。したがって、人は神様の特別な関心の対象でもあります。
創造主神様と正しい関係の中で生きていくこと、すなわち神様を父親として敬い、頼りに生きていく人は、神様の子供としての特別な恵みを享受して生きることになるのです。
神様の子供としての特別な恵みは、この世で生きている間に食べていく問題、すなわち生存の問題によって心配しなくても良いということです。

[マタイの福音書 6:25-26] “ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。”

「命のために何を食べようか。何を飲もうか。体のために何を着ようか。..」
要約すると、‘命のために...’、‘体のために...’ 何をするかを心配することです。
食べるものと飲む水、着る服は現代社会を生きていく人にとって必ず必要なものです。命を維持し、社会活動を正常にするためには必ず必要だということです。
イエス様はこのように命を維持したり、寿命を延ばすことが人の能力でできるものではないという点をこのようにおっしゃいました。

[マタイの福音書 6:27] “あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。”

そうです。私たちの努力や能力では命を維持することも、延長することも不可能なことです。人の命と死はただ創造主である神様にあるからです。神様が許さなければどんな命も消滅せず、神様が許さなければいくら科学と医学の力を動員してもたった1秒も延長できないという事実を信じてください。
韓国では実際に道を歩いていて転んだのに命を落とした人もいれば、建物の5階から落ちたのに助かった人もいました。このような事件は運が良くて悪いからではなく、命は神様が主管するということを示す事件です。私の父親も病院から3ヶ月しか生きられないと診断されましたが、10年をもっと生きて天国に行かれました。父親は当時イエス様を信じなかったが、後にはイエス様を信じて洗礼も受けられ天国に行かれました。神様が救おうと寿命を延長させてくださったのです。
だからといって、科学と医学を無視しろというわけではありません。しかし盲信してはいけません。すべての命は私たちの父である神様が主管するので、食べていく問題をはじめ、人生のすべてのことに神様を信じ、大胆な信仰で生きていくことを願います。

2. 失われた命と回復の服

すべての命を神様が主管するということは、創造主である神様が命を与えてくださった方だからです。これらの内容は聖書の創世記に現れています。人をはじめとするすべての生命体と命のないすべてのものは神様が創造した被造物です。

[創世記 2:24-28] “神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。25神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。26神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。28神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」”

特に人に与えてくださったこの命は、神様と交際し、聖なる人生を送るようにくださったのです。ところが人がその命を失ってしまいました。神様の御言葉に従わなくて, 神様との関係が断ち切れてしまったのです。神様との関係が断ち切れたということは、霊的な命を失い、死んだことを意味します。

[創世記 2:16-17] “神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは 必ず死ぬ。」”

アダムとエバがエデンの園に住んでいたときは、すべての木の実を思いのまま食べることができました。しかし、園の中央にあった善悪の知識の木の実は絶対に食べないようにと命令されたのです。アダムとエバは神様の命令に従わず、この木の実を食べてしまいました。その結果、アダムとエバは霊的な命を失い、自分たちが裸であることを知り、恥を感じるようになりました。その時、人間の恥を隠すために神様が直接服を着せてくださったのです。

神様に罪を犯した人に現れる現象は、罪による自分たちの過ちを知り、神様を避けて隠れる姿を見ることになります。

[創世記 3:8] “そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。”

人が神様を離れて人生を生きるということは、結局不幸な人生に向かって歩みを向けたことを意味します。神様の命令に逆らって、神様を離れて生きることを選択することは、これ以上の創造主神様の統治を拒否したことであり、自分自身が主人として生きていく人生を選択したことだからです。このような選択に対する結果は、最も不幸な人生を迎えることがアダムの場合を通じて分かることができます。
神様が創造した人間の裏切りにもかかわらず、神様は人間に向けた愛を収めませんでした。神様に背を向けたアダムとエバをあきらめずに神様に出て来られるように服を作って着せてくださったのです。

[創世記 3:21] “神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。”

私たちはおしゃれをためにこの服を着るかあの服を着るか心配します。しかし、神様が手作りして着せてくださった人類の最初の服はおしゃれのためではなく、私たちの罪を隠すために手作りして着せてくださったことから始まったものです。避けたり隠れたりせずに、この服を着て神様のところに出て来るように着せてくださったのです。

◈アダムとエバが自分たちが脱いだことを知って恥を感じたのは、罪によって永遠の刑罰を受けることになる罪人の恥を象徴的に見せています。終わりの日に神様の審判台の前ではすべての人の罪が明らかになり、恥を掻くことになります。神様の刑罰を避ける他の方法はありません。その刑罰を避ける方法は、ただ神様が着せてくださった服を着る方法だけです。この服は罪人の代わりに罪滅ぼしのいけにえとして捧げられた子羊であるイエス様を意味するからです。罪人の代わりに死んだイエス様を信じる人々、すなわち神様が自ら着せてくださった服を着た人々は永遠の地獄の刑罰の恥を免れ救われて天国に入ることになるという救いのメッセージが、エデンの園で罪を犯して神様を避けたアダムとエバを通じてこのように表わしたのです。ですから、イエス様として服を着てください。この服は救いのために神様が着せてくださる服です。
神様は天国の民たちにこのように仰いました。

[ローマ人への手紙 13:14] “主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。”

他の服はどんな服を着ても罪がなくならないので、未来が心配になり、悩みになり、満足がないのです。イエス様による服を着た人だけが満足があり、心配と悩みの頸木を脱ぐことになるのです。

[ヨハネの福音書 14:27] “わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんでは なりません。”

神様が自ら着せてくださる救いの服、すなわちイエス·キリストで服を着て救いの喜びを享受する皆さんになることを願います。

3. 神様の御国と神様の義を求める人生

イエス様として信仰の服を着ると、すべての問題が解決されます。食べていく問題で心配する必要もありません。命のために何を食べるか、何を飲むか心配する必要はありません。私たちに必要なものを神様はすでにご存知だからです。

[マタイの福音書 6:31-32] “ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。32これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。”

この内容について誤解がないことを願います。これは、仕事をする必要がないということではありません。経済活動をしなくても満たしてくれるという意味ではないということです。むしろ神様がおっしゃったとおり、顔に汗が流れるよう誠実に働き、努力して自分と家族と社会のための重要な役割を堪えなければならないのです。
神様を信じない人々は、人生のすべての目標がこの世での人生に集中しています。良い学校を卒業して良い会社に就職し、楽な人生のために熱心に努力して生きていきます。
しかし、神様を信じる人々は神様がこのような問題を解決し、将来のために最も良い道に導いてくださいます。私たちは信仰で神様のお導きに従っていけばいいのです。
信仰で生きるということは、永遠の御国である天国での生活を準備しながら生きることを意味します。神様の治めと統治に従いながら、神様が望む方式で生きていくことを言います。
それをイエス様はこのように仰いました。

[マタイの福音書 6:33] “まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。”

マタイの福音書6章でイエス様は引き続き財物に対する姿勢を教えられたので、この御言葉もやはり財物と神様の前でどんな姿勢を持たなければならないのかをおっしゃったと見られます。つまり、人生で必要だという理由で財物を追う人生を追求し、有益のために信仰を後回しにすることは神様が喜ばない姿なので、神様の御国と神様の義を追求し天国の民としての姿を持つようにということです。

「求めなさい」(ζητέω)という単語は、「探す、渇望する、要求する、求める」という意味で、神様の御国を得るために渇望しながら探すことを指します。
ギリシャ語の原文聖書には、この単語が2人称の複数命令形で記録されています。
“まず神の国と神の義を求めなさい。”
直訳すると、「あなたがたはまず神の国と神の義を求めなさい」と解釈できます。

聖書を通じておっしゃる「神の国」は、世の中の国とは異なる概念を持っています。
世の中の国は領土と国民、統治する組織を持つ時、国家として認めています。しかし、「神の国」の要素は「神の統治」を基本概念として持っています。つまり、領土の境界や統治組織がなく、神の統治を受ける人はどの国、どの地域にいても「神の国」の民になるのです。
また「神様の義」は基本的に公平と真実を変わらず実践する義である神様を表現する時に表す単語なので、公平で、真実で、義である神様の統治が私たちの人生に臨むように(現れるように)なることを願い、世の中の物質至上主義の価値観を捨て、ひたすら神様の治めに従えということです。
世の中の人々が自分の有益と財物を追う人生を追求する時、私たちは神様に向けた信仰で天国の民としての倫理と道徳を守り、世の中に神様の愛と義を実践する人生を生きなければならないということです。
また、神様の御国の民として当然実践しなければならない礼拝とお祈り、聖書を読む生活も、広い意味では神様の御国と神様の義を求める人生と理解できるのです。神様とより親密になり、神様の意思をより深く分かるための生活は、神様が自分の民に引き続き要求される人生の姿だからです。

この御言葉の前に「まず」とおっしゃったことは、他の何よりも先に、‘神様の御国と神様の義を求めろ’ということです。
これが神様に従う信仰の人生であり、そのような人には神様の保護と供給して下さる恵みをあふれるようにするということです。

愛する聖徒の皆さん!
信仰の道はイエス様に従う道と定められています。
今週も私たちにくださった御言葉を考えながら、まず神様の御国と神様の義を求める人生で神様を喜ばせ、私たちに必要なすべてのものを供給してくださる神様の御手を経験し、恵まれた人生を生きていく神様の民になることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。

[お祈りいたします]

天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
私たちの人生が神様を喜ばせるための人生になり、神様の聖なる御名が更に高まるように信仰と従順の人生を生きていく天国の民になるようにしてください。
私たちに必要なすべてのことを知っておられる神様を信頼して頼り、財物を追わず、生計の問題によって拘らず、まず神様の御国と神様の義を求める人生を送れるように助けてください。
この一週間も罪に陥らず、信仰の人生で勝利させ、健康と安全を守ってくださり、神様と毎日親密な関係の中で 幸せを享受して生きていけるように恵みを施してください。
イエス様の御名によってお祈りいたします. アーメン。
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