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[主日礼拝-240204]『狭い門から入りなさい』(マタイの福音書 7章13節-14節)
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2024-02-06 00:18
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『狭い門から入りなさい』
[マタイの福音書 7:13-14]
“13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。
私たちがどこかに行こうとするときは、目的地まで道を通って行くことになります。まっすぐ行っても回って行っても道を通って目的地まで行くことになります。
ところが、そのような道の中には道路が広くて平坦で良い道があれば、道路が狭くて未舗装道路のように悪い道路もあります。特別な理由がない状況であれば、ほとんどの人は早い時間に行くことができ、広くて平坦な道に行こうとするでしょう。
イエス様は今日の御言葉で、私たちが歩いていく人生の道でも2つの道をおっしゃっています。人生の道も広くて平坦な道があり、狭すぎて発見することさえ難しい道があるということです。
皆さんはどの道を選びますか。
一般的には広くて平坦な道を選ぶでしょうが、イエス様は私たちの考えと願いとは正反対の狭い道の方に行くようにとおっしゃっています。
その理由を見ていきたいと思います。
1.二つの門と道 : 二つの人生の道
イエス様は私たちの人生の道、私たちが選択しなければならない人生の道についてこのようにおっしゃいました。
[マタイの福音書 7:13-14] “13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
この御言葉からイエス様は二つの門と道をおっしゃいました。狭い門と広い門、そして狭い道と広い道です。普通は道を通って門に入るので道を先に言いますが、本文の御言葉で「門」を先におっしゃったのは、強調の意味があるからです。人生の最終の目的地として、門を強調されたのです。
内容を見ると、狭い門に入って行く道は狭く、細いことで見出す人が少ないとおっしゃって、広い門に入って行く道は広くて多くの人々が入るそうです。
この二つの道がどこに向かうのか、その意味は門の後ろに現れる結果から分かります。
多くの人々が往来する広い道は、楽に歩いて行くことができ、多くの見所と人たちと一緒に行きながら面白く行くことができる道ですが、道の先にある広い門から入ると、滅亡(死、裁き)が待っているということです。
逆に狭い門に入って行く道は、人も少なく、道も狭い上に入る門も狭くて発見するのも難しい道です。しかし、この狭い門に入ると、命を得て永遠の人生を送ることができるようになります。
イエス様がおっしゃったこの狭い門は、イエス様を受け入れ信じる人々が入る門で、広い門は、イエス様を信じない人々が入る門をおっしゃった内容です。命に至る門は狭い道を通って入り、滅亡(審判、死)に至る門は広い道を通って入るということです。
私たちが生きているこの世の中には、このようにイエス様を信じて狭い道を歩いていく人々と、イエス様を信じないまま広い道を歩いていく人々がいます。
世の中の観点では狭い道に行く人生は何か意志が弱く、面白くない、古臭い人々の人生と認識されることがあります。人も少なく、自分たちの生活にあまり役に立たないと思うのです。反面、広い道を行く人々は、数多くの人々と交わりながら面白く見え、人生を楽しみながら暮らせる道に見えるかもしれません。自分のやりたいようにやり、自由な人生の道に思えるのです。
この二つの道を行く人たちの違いは、「誰を主人としているのか」に分けることができます。創造主である神様を主人として生きていく人は、我慢し、忍耐し、節制し、神様のための信仰の人生を生きています。この人たちが狭い道を行く人たちです。しかし、何でも自分のやりたいようにしながら楽しむための人生を生きていく人たちは 自分が人生の主人となり、自分のための人生を生きています。誰かから自分の人生を干渉されるのを嫌うのが、この人たちの特徴です。このような人々が広い道を行く人々です。人々は、自身がやりたいようにやりながら生きることが幸せであり、祝福だと 勘違いする時が多いです。社会が安定し、人々が安心して暮らすためには適正な規則と制裁があってこそ可能なように、人々の人生においても是非に対する規則とある程度の制裁があってこそ問題が生じないのです。また、他人のためのある程度の配慮と仕え、犠牲を通じて社会はさらに美しい姿を備えるようになり、そのような社会で自分も恩恵を受けながら生きることになるので、自分だけのための利己的な人生はむしろ自分を孤立させる結果を生むようにするのです。
聖書によれば、最初に創造されたアダムとエバが神様が定めた規則と法を破り、自分がやりたいようにしたせいでエデンの園から追い出されることになったことが見られます。そしてその後、アダムとエバを通じて生まれるすべての人類は罪の中で苦しみ、今まで熾烈に生きているということを教訓にしています。すべてが整った完璧な環境から追い出され、一つでも多く持つために競争的に生きていく人類の姿を通じて人生で何が最も重要なのか慎重に考えてみなければならないのです。
イエス様は世の中のどんなものよりも自分の命がはるかに重要だとおっしゃいました。
[マルコの福音書 8:36-37] “人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。37自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。”
「世界中のすべてのものを持ったとしても、今夜に神様がその命を引き取って行かれたら何の役に立つか。」ということです。
すべての人はこの世の中で暫くの間の人生を生きていて、一人も例外なく去ることになります。そしてその後は神様の御前で裁きを受けることになるとおっしゃいました。
[へブル人への手紙 9:27] “そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、”
したがって、イエス·キリストを受け入れ、永遠の命を得ることが他の何よりも重要なのです。神様を主人として迎え、その方の御心に従って生きていくことだけが人生のすべての旅程と最後の結果までも永遠の命を得ることになる幸せな人生になるということを信じてください。
2.見出す者はわずかです。
[マタイの福音書 7:13-14] “13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
本文によれば、イエス様は広い門に入る人々はその数が多くて狭い門に入る人々はその数が少ないと仰いました。広い門に入って行く道、つまり人々が見る時、一般的に納得でき、多くの人々が認めるに足る合理的な道だと考えられるため、人々が同調してその道を行きますが、結局その道は多数の意見と時代的な状況が大きく作用した結果なのです。多くの人々が正しいと言えば、それが正しい道のように見えるからです。
今から約20年前には社会で最も多く通用する「キーワード」が「愛」という単語でした。弱者を愛し、少数者を愛で包容しようという趣旨のスローガンが社会のあちこちで叫ばれていました。当時、社会的に最も大きな話題は「安楽死」問題と「性的少数者」問題でした。「アディアフォラ」(adiaphora/ἀδιάφορα)(直訳:「関係のない/重要でないこと」)という論争の延長線の上で、聖書の中で直接言及していない問題は「愛」の観点から解釈すべきだということでした。
「安楽死」の問題は不治の病にかかった人が長い間病院で治療を受ける時、家族が体験しなければならない苦痛を減らそうという趣旨の問題でした。経済的に困難な家族と治療が不可能な患者の苦痛を減らそうという意味で「安楽死」を法的に許容しようという主張が全世界的にイシューになったのです。多くの人々がこの問題に同調し、多くの国で「安楽死」を法的に許可したりもしました。しかし、当時最も強く反対した人々がキリスト教の教会でした。命は神様の絶対主権に属するものなので、人が人為的に止めることはできないという理由のためでした。しかし、社会的な世論が賛成する方向に傾き、多くの国で本人と家族が望むなら「安楽死」が許される状況になってしまいました。
神様は自分の命はもちろん、他人の命を害することはいかなる場合にも許しませんでした。
[民数記 35:30-31] “もしだれかが人を打ち殺したなら、証人たちの証言によってその殺人者を殺す。一人の証人の証言だけで、人を死刑にすることがあってはならない。31あなたがたは、殺人者のいのちのために贖い金んを受け取ってはならない。彼は死ぬべき悪しき者なのである。彼は必ず殺されなければならない。”
命を傷つけた人は必ず命でそれを返さなければならないのが神様の法なのです。
同性愛者のような「性的少数者」たちに対しても今は全世界的に包容する雰囲気が造成されていますが、先日からは「差別禁止法」を制定し、むしろ少数者ではない多数の人々が逆差別を受ける事例が発生しています。20年前の当時もキリスト教では「性的少数者の差別禁止法」を制定することに対して強く反対してきましたし、今もなお反対しています。愛という名前で行うからといって、すべてが本当の愛ではないからです。
キリスト教は、「性的少数者」の人々を差別せず、正常な生活を送るために努力しています。なぜなら、これは神様の創造秩序を崩すことであり、神様の救いからも捨てられる罪だからです。
[レビ記 20:13] “男がもし女と寝るように男と寝たなら、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。”
[コリント人への手紙 第一 6:9-10] “あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。”
愛する聖徒の皆さん!
多くの人が正しいと言ったからといって、それが必ずしも正しい道ではないということを覚えておいてください。私たちが進むべき道は、ただ命に向かう狭い道だということを必ず覚えておいてください。命を軽視し、社会秩序を崩し、伝統的な健全な家庭を破壊する誤った文化を正すために、是非を正確に分別する洞察力と知恵を求めながら救いの門に向けた信仰の道を歩いていくことを願います。
狭い門に向かいながら社会的な雰囲気や人々の視線のために動揺せず、ただ私たちの神様、イエス·キリストだけを眺めながら信仰の人生を歩いていくことを願います。
この道は神様に選ばれた人だけが行ける恵みの道です。
見出す人が少ない「狭い道」は、神様の法に従い、世の中に命の道を宣べ伝え、健全で明るい社会を作るために神様から選ばれた人々だけが行くことができるので、その数が少ないのです。
選ばれた人々はどんな人々でしょうか?
イエス·キリストがどんな方なのかを聞いて、永遠の命を得るためには何をしなければならないのかを知った人々です。神様の御前に出て来て定期的に礼拝を捧げ、創造主である神様を高める人々です。ですから、選ばれた皆さんは神様から恵みを受けた人たちだということを信じてください。神様のお導きによって狭い道に入ったからです。神様の御言葉を聞いているこのすべての状況は、偶然に起きたことではないということです。
神様の恵みがなかったら、私たちも世の中の人々と一緒に広い道に進みながら滅亡に向かって歩いていたはずです。今はたとえみすぼらしく、軟弱で、苦労して生きているが、私たちの人生の道は光明の天国でこれ以上苦痛もなく、死もなく、悲しみも痛みもない永遠な人生を生きることになります。
主イエス·キリストが皆さんを最後までお導き、守ってくださることを信じ込みます。アーメン!
3.「狭い門」から入りなさい
[マタイの福音書 7:13-14] “13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
本文の御言葉によればイエス様は「狭い門から入りなさい」とおっしゃっています。
これは門に向かって行く途中で諦めたり、立ち止まっていないで、門の中に入りなさいということです。つまり、完全な救いの席に入りなさいということです。これは最後まで最善を尽くして完走することを要求される御言葉です。信仰生活をしていると、理解できないことも多いです。熱心に神様に仕え信仰生活をしますが、良いことよりは失望したことが生じ、信じない人々から不利益を受けることも生じます。このように心的、肉体的に難しいことが生じ、信仰生活を妨害されることが生じても救いの門を開けて中に入ることを願うのです。
14節の御言葉をもう一度見て参ります。
[マタイの福音書 7:14] “いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
「細い」(τεθλιμμένη)という単語は、比喩的に使われる時は「苦しめる、抑圧する、妨害する、挫折させる」という意味を持つようになります。ここで使われた単語は受動態の完了分詞なので、この狭い道に行く人生が「いじめられ、抑圧され、妨害され、挫折される道」という点を表しています。
イエス様を信じて命を得る道は、世の中からいじめられ、妬みと迫害と冷遇を受け、信仰の道を妨害されるという御言葉です。このような事実はキリスト教の歴史の中でそのまま繰り返され、現在までも続いています。イスラエルだけでなく、北朝鮮というところではイエス様を信じたり礼拝をして発覚すれば、家族全員が強制労働刑にあったり、見せしめとして公開処刑されることが日常茶飯事です。中国でもキリスト教は禁止されていますし、イスラム国家やヒンドゥー国家などでもキリスト教は途方もないリスクを甘受しなければならないのが現在の状況です。
日本でも1500年代の半ばから1600年代の半ばまで、数多くのクリスチャンがイエス·キリストを信じるという理由で無念に命を失った悲しい歴史を持っています。このようにイエス様を信じる人生は苦難と迫害が後に続く道なのです。そのため、途中で信仰をあきらめたり、立ち止まったりする人も少なくありません。
このように苦難の中にいる聖徒たちに向かって、ペテロ使徒はこのように叫びました。
[ペテロの手紙 第一 1:6-7] “そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。”
今現在苦難の中にいらっしゃる方がおられますか?
主が共におられるという事実を信じることを願います。苦難を通じて私たちは金よりも高価な信仰の人に成長することになり、イエス·キリストが再び来られる時に大きな称賛と栄光と誉れを受けることになるということを記憶し、最後まで完走することを願います。
ルカの福音書13章には、この救いの門に入りたがっているが、入れない人が多いだろうとおっしゃっています。
[ルカの福音書 13:24] “「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。”
救いの門から入って、真の幸せと平安を享受する皆さんになることを祝福します。
イエス様を自分の救い主として迎え、信仰の人生を生きていく道は、多くの部分において放棄もしなければならず、また決断が必要な道です。
何を諦めて決断をしなければならないでしょうか?
この世や世の中にあるものを愛したり、快楽と名誉と自分が王になった傲慢な人生を喜んで諦めなければなりません。私たちは一瞬の有益ではなく、永遠の有益を待つ人々だからです。
[ヨハネの手紙 第一 2:15-17] “あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。16すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。17世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。”
ただイエス·キリストだけが世の中の王であり、キリストの統治に完全に従うための人生を毎日決断しなければならないのです。これが罪と遠ざかる人生であり、命を得る門に入る人生だからです。
色々な妨害と困難の中でも動揺せず、最後まで狭い道、狭い門から入って天国の喜びと真の平安を経験して生きていくすべての主の民になることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。
[お祈りいたします]
天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
私たちを神様の子供としてお呼んで下さり、命の道に導いて下さって感謝いたします。
世の中の誘惑とサタンの計略から守っていただき、神様の十字架の恵みを記憶し、最後まで正しい信仰の道を歩いていけるように御恵みを施してくださいますようお願いいたします。神様の意思を正しく分別できる知恵を与えていただき、神様を喜ばせる人生を忠実に生きていくように恵みをお与えください。
愛する主の民たち、一人一人と同行していただき、当然行くべき道に導いて下さり、神様をより一層愛し、世の中で光と塩としての人生を生きていく聖なる聖徒たちになるように共におられてくださいますようお願いいたします。
今週も神様の保護と導かれる恵みの中で生きていく福々しい週間になるようにし、罪に陥らないように守って下さい。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
[マタイの福音書 7:13-14]
“13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。
私たちがどこかに行こうとするときは、目的地まで道を通って行くことになります。まっすぐ行っても回って行っても道を通って目的地まで行くことになります。
ところが、そのような道の中には道路が広くて平坦で良い道があれば、道路が狭くて未舗装道路のように悪い道路もあります。特別な理由がない状況であれば、ほとんどの人は早い時間に行くことができ、広くて平坦な道に行こうとするでしょう。
イエス様は今日の御言葉で、私たちが歩いていく人生の道でも2つの道をおっしゃっています。人生の道も広くて平坦な道があり、狭すぎて発見することさえ難しい道があるということです。
皆さんはどの道を選びますか。
一般的には広くて平坦な道を選ぶでしょうが、イエス様は私たちの考えと願いとは正反対の狭い道の方に行くようにとおっしゃっています。
その理由を見ていきたいと思います。
1.二つの門と道 : 二つの人生の道
イエス様は私たちの人生の道、私たちが選択しなければならない人生の道についてこのようにおっしゃいました。
[マタイの福音書 7:13-14] “13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
この御言葉からイエス様は二つの門と道をおっしゃいました。狭い門と広い門、そして狭い道と広い道です。普通は道を通って門に入るので道を先に言いますが、本文の御言葉で「門」を先におっしゃったのは、強調の意味があるからです。人生の最終の目的地として、門を強調されたのです。
内容を見ると、狭い門に入って行く道は狭く、細いことで見出す人が少ないとおっしゃって、広い門に入って行く道は広くて多くの人々が入るそうです。
この二つの道がどこに向かうのか、その意味は門の後ろに現れる結果から分かります。
多くの人々が往来する広い道は、楽に歩いて行くことができ、多くの見所と人たちと一緒に行きながら面白く行くことができる道ですが、道の先にある広い門から入ると、滅亡(死、裁き)が待っているということです。
逆に狭い門に入って行く道は、人も少なく、道も狭い上に入る門も狭くて発見するのも難しい道です。しかし、この狭い門に入ると、命を得て永遠の人生を送ることができるようになります。
イエス様がおっしゃったこの狭い門は、イエス様を受け入れ信じる人々が入る門で、広い門は、イエス様を信じない人々が入る門をおっしゃった内容です。命に至る門は狭い道を通って入り、滅亡(審判、死)に至る門は広い道を通って入るということです。
私たちが生きているこの世の中には、このようにイエス様を信じて狭い道を歩いていく人々と、イエス様を信じないまま広い道を歩いていく人々がいます。
世の中の観点では狭い道に行く人生は何か意志が弱く、面白くない、古臭い人々の人生と認識されることがあります。人も少なく、自分たちの生活にあまり役に立たないと思うのです。反面、広い道を行く人々は、数多くの人々と交わりながら面白く見え、人生を楽しみながら暮らせる道に見えるかもしれません。自分のやりたいようにやり、自由な人生の道に思えるのです。
この二つの道を行く人たちの違いは、「誰を主人としているのか」に分けることができます。創造主である神様を主人として生きていく人は、我慢し、忍耐し、節制し、神様のための信仰の人生を生きています。この人たちが狭い道を行く人たちです。しかし、何でも自分のやりたいようにしながら楽しむための人生を生きていく人たちは 自分が人生の主人となり、自分のための人生を生きています。誰かから自分の人生を干渉されるのを嫌うのが、この人たちの特徴です。このような人々が広い道を行く人々です。人々は、自身がやりたいようにやりながら生きることが幸せであり、祝福だと 勘違いする時が多いです。社会が安定し、人々が安心して暮らすためには適正な規則と制裁があってこそ可能なように、人々の人生においても是非に対する規則とある程度の制裁があってこそ問題が生じないのです。また、他人のためのある程度の配慮と仕え、犠牲を通じて社会はさらに美しい姿を備えるようになり、そのような社会で自分も恩恵を受けながら生きることになるので、自分だけのための利己的な人生はむしろ自分を孤立させる結果を生むようにするのです。
聖書によれば、最初に創造されたアダムとエバが神様が定めた規則と法を破り、自分がやりたいようにしたせいでエデンの園から追い出されることになったことが見られます。そしてその後、アダムとエバを通じて生まれるすべての人類は罪の中で苦しみ、今まで熾烈に生きているということを教訓にしています。すべてが整った完璧な環境から追い出され、一つでも多く持つために競争的に生きていく人類の姿を通じて人生で何が最も重要なのか慎重に考えてみなければならないのです。
イエス様は世の中のどんなものよりも自分の命がはるかに重要だとおっしゃいました。
[マルコの福音書 8:36-37] “人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。37自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。”
「世界中のすべてのものを持ったとしても、今夜に神様がその命を引き取って行かれたら何の役に立つか。」ということです。
すべての人はこの世の中で暫くの間の人生を生きていて、一人も例外なく去ることになります。そしてその後は神様の御前で裁きを受けることになるとおっしゃいました。
[へブル人への手紙 9:27] “そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、”
したがって、イエス·キリストを受け入れ、永遠の命を得ることが他の何よりも重要なのです。神様を主人として迎え、その方の御心に従って生きていくことだけが人生のすべての旅程と最後の結果までも永遠の命を得ることになる幸せな人生になるということを信じてください。
2.見出す者はわずかです。
[マタイの福音書 7:13-14] “13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
本文によれば、イエス様は広い門に入る人々はその数が多くて狭い門に入る人々はその数が少ないと仰いました。広い門に入って行く道、つまり人々が見る時、一般的に納得でき、多くの人々が認めるに足る合理的な道だと考えられるため、人々が同調してその道を行きますが、結局その道は多数の意見と時代的な状況が大きく作用した結果なのです。多くの人々が正しいと言えば、それが正しい道のように見えるからです。
今から約20年前には社会で最も多く通用する「キーワード」が「愛」という単語でした。弱者を愛し、少数者を愛で包容しようという趣旨のスローガンが社会のあちこちで叫ばれていました。当時、社会的に最も大きな話題は「安楽死」問題と「性的少数者」問題でした。「アディアフォラ」(adiaphora/ἀδιάφορα)(直訳:「関係のない/重要でないこと」)という論争の延長線の上で、聖書の中で直接言及していない問題は「愛」の観点から解釈すべきだということでした。
「安楽死」の問題は不治の病にかかった人が長い間病院で治療を受ける時、家族が体験しなければならない苦痛を減らそうという趣旨の問題でした。経済的に困難な家族と治療が不可能な患者の苦痛を減らそうという意味で「安楽死」を法的に許容しようという主張が全世界的にイシューになったのです。多くの人々がこの問題に同調し、多くの国で「安楽死」を法的に許可したりもしました。しかし、当時最も強く反対した人々がキリスト教の教会でした。命は神様の絶対主権に属するものなので、人が人為的に止めることはできないという理由のためでした。しかし、社会的な世論が賛成する方向に傾き、多くの国で本人と家族が望むなら「安楽死」が許される状況になってしまいました。
神様は自分の命はもちろん、他人の命を害することはいかなる場合にも許しませんでした。
[民数記 35:30-31] “もしだれかが人を打ち殺したなら、証人たちの証言によってその殺人者を殺す。一人の証人の証言だけで、人を死刑にすることがあってはならない。31あなたがたは、殺人者のいのちのために贖い金んを受け取ってはならない。彼は死ぬべき悪しき者なのである。彼は必ず殺されなければならない。”
命を傷つけた人は必ず命でそれを返さなければならないのが神様の法なのです。
同性愛者のような「性的少数者」たちに対しても今は全世界的に包容する雰囲気が造成されていますが、先日からは「差別禁止法」を制定し、むしろ少数者ではない多数の人々が逆差別を受ける事例が発生しています。20年前の当時もキリスト教では「性的少数者の差別禁止法」を制定することに対して強く反対してきましたし、今もなお反対しています。愛という名前で行うからといって、すべてが本当の愛ではないからです。
キリスト教は、「性的少数者」の人々を差別せず、正常な生活を送るために努力しています。なぜなら、これは神様の創造秩序を崩すことであり、神様の救いからも捨てられる罪だからです。
[レビ記 20:13] “男がもし女と寝るように男と寝たなら、二人は忌み嫌うべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。”
[コリント人への手紙 第一 6:9-10] “あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。”
愛する聖徒の皆さん!
多くの人が正しいと言ったからといって、それが必ずしも正しい道ではないということを覚えておいてください。私たちが進むべき道は、ただ命に向かう狭い道だということを必ず覚えておいてください。命を軽視し、社会秩序を崩し、伝統的な健全な家庭を破壊する誤った文化を正すために、是非を正確に分別する洞察力と知恵を求めながら救いの門に向けた信仰の道を歩いていくことを願います。
狭い門に向かいながら社会的な雰囲気や人々の視線のために動揺せず、ただ私たちの神様、イエス·キリストだけを眺めながら信仰の人生を歩いていくことを願います。
この道は神様に選ばれた人だけが行ける恵みの道です。
見出す人が少ない「狭い道」は、神様の法に従い、世の中に命の道を宣べ伝え、健全で明るい社会を作るために神様から選ばれた人々だけが行くことができるので、その数が少ないのです。
選ばれた人々はどんな人々でしょうか?
イエス·キリストがどんな方なのかを聞いて、永遠の命を得るためには何をしなければならないのかを知った人々です。神様の御前に出て来て定期的に礼拝を捧げ、創造主である神様を高める人々です。ですから、選ばれた皆さんは神様から恵みを受けた人たちだということを信じてください。神様のお導きによって狭い道に入ったからです。神様の御言葉を聞いているこのすべての状況は、偶然に起きたことではないということです。
神様の恵みがなかったら、私たちも世の中の人々と一緒に広い道に進みながら滅亡に向かって歩いていたはずです。今はたとえみすぼらしく、軟弱で、苦労して生きているが、私たちの人生の道は光明の天国でこれ以上苦痛もなく、死もなく、悲しみも痛みもない永遠な人生を生きることになります。
主イエス·キリストが皆さんを最後までお導き、守ってくださることを信じ込みます。アーメン!
3.「狭い門」から入りなさい
[マタイの福音書 7:13-14] “13狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
本文の御言葉によればイエス様は「狭い門から入りなさい」とおっしゃっています。
これは門に向かって行く途中で諦めたり、立ち止まっていないで、門の中に入りなさいということです。つまり、完全な救いの席に入りなさいということです。これは最後まで最善を尽くして完走することを要求される御言葉です。信仰生活をしていると、理解できないことも多いです。熱心に神様に仕え信仰生活をしますが、良いことよりは失望したことが生じ、信じない人々から不利益を受けることも生じます。このように心的、肉体的に難しいことが生じ、信仰生活を妨害されることが生じても救いの門を開けて中に入ることを願うのです。
14節の御言葉をもう一度見て参ります。
[マタイの福音書 7:14] “いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”
「細い」(τεθλιμμένη)という単語は、比喩的に使われる時は「苦しめる、抑圧する、妨害する、挫折させる」という意味を持つようになります。ここで使われた単語は受動態の完了分詞なので、この狭い道に行く人生が「いじめられ、抑圧され、妨害され、挫折される道」という点を表しています。
イエス様を信じて命を得る道は、世の中からいじめられ、妬みと迫害と冷遇を受け、信仰の道を妨害されるという御言葉です。このような事実はキリスト教の歴史の中でそのまま繰り返され、現在までも続いています。イスラエルだけでなく、北朝鮮というところではイエス様を信じたり礼拝をして発覚すれば、家族全員が強制労働刑にあったり、見せしめとして公開処刑されることが日常茶飯事です。中国でもキリスト教は禁止されていますし、イスラム国家やヒンドゥー国家などでもキリスト教は途方もないリスクを甘受しなければならないのが現在の状況です。
日本でも1500年代の半ばから1600年代の半ばまで、数多くのクリスチャンがイエス·キリストを信じるという理由で無念に命を失った悲しい歴史を持っています。このようにイエス様を信じる人生は苦難と迫害が後に続く道なのです。そのため、途中で信仰をあきらめたり、立ち止まったりする人も少なくありません。
このように苦難の中にいる聖徒たちに向かって、ペテロ使徒はこのように叫びました。
[ペテロの手紙 第一 1:6-7] “そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。”
今現在苦難の中にいらっしゃる方がおられますか?
主が共におられるという事実を信じることを願います。苦難を通じて私たちは金よりも高価な信仰の人に成長することになり、イエス·キリストが再び来られる時に大きな称賛と栄光と誉れを受けることになるということを記憶し、最後まで完走することを願います。
ルカの福音書13章には、この救いの門に入りたがっているが、入れない人が多いだろうとおっしゃっています。
[ルカの福音書 13:24] “「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。”
救いの門から入って、真の幸せと平安を享受する皆さんになることを祝福します。
イエス様を自分の救い主として迎え、信仰の人生を生きていく道は、多くの部分において放棄もしなければならず、また決断が必要な道です。
何を諦めて決断をしなければならないでしょうか?
この世や世の中にあるものを愛したり、快楽と名誉と自分が王になった傲慢な人生を喜んで諦めなければなりません。私たちは一瞬の有益ではなく、永遠の有益を待つ人々だからです。
[ヨハネの手紙 第一 2:15-17] “あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。16すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。17世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。”
ただイエス·キリストだけが世の中の王であり、キリストの統治に完全に従うための人生を毎日決断しなければならないのです。これが罪と遠ざかる人生であり、命を得る門に入る人生だからです。
色々な妨害と困難の中でも動揺せず、最後まで狭い道、狭い門から入って天国の喜びと真の平安を経験して生きていくすべての主の民になることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。
[お祈りいたします]
天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
私たちを神様の子供としてお呼んで下さり、命の道に導いて下さって感謝いたします。
世の中の誘惑とサタンの計略から守っていただき、神様の十字架の恵みを記憶し、最後まで正しい信仰の道を歩いていけるように御恵みを施してくださいますようお願いいたします。神様の意思を正しく分別できる知恵を与えていただき、神様を喜ばせる人生を忠実に生きていくように恵みをお与えください。
愛する主の民たち、一人一人と同行していただき、当然行くべき道に導いて下さり、神様をより一層愛し、世の中で光と塩としての人生を生きていく聖なる聖徒たちになるように共におられてくださいますようお願いいたします。
今週も神様の保護と導かれる恵みの中で生きていく福々しい週間になるようにし、罪に陥らないように守って下さい。
イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
合計 92
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
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福音とは何ですか?
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2023.09.08
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[主日礼拝-250511]『結婚制度とキリスト』(マタイの福音書 19章1節-12節)
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2025.05.11
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閲覧数 29
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[主日礼拝-250504] 『赦しに対する信仰的姿勢』(マタイの福音書 18章21節-35節)
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2025.05.04
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[主日礼拝-250427] 『回復の機会』(マタイの福音書 18章15節-20節)
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2025.04.27
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88 |
[主日礼拝-250420]『イエス様の復活』(ルカの福音書 24:1-12)_復活主日_聖餐式
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2025.04.20
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[主日礼拝-250413]『十字架を通したメッセージ』(イザヤ書 53章1節-6節)_受難週間
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2025.04.14
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[主日礼拝-250406]『小さい者のための心遣い』(マタイの福音書 18章5節-10節)
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2025.04.06
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[主日礼拝-250330]『子供のような信仰』(マタイの福音書 18章1節-4節)
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2025.03.30
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[主日礼拝-250323]『神殿税を納めた理由』(マタイの福音書 17章22節-27節)
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2025.03.24
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[主日礼拝-250316] 『大きな信仰の人になるために』(マタイの福音書 17章14節-20節)
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2025.03.17
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[主日礼拝-250309]『キリストの栄光を見た弟子たち』(マタイの福音書 17章1節-13節)
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2025.03.10
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