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[主日礼拝-240211]『実によって見分ける』(マタイの福音書 7章15節-20節)

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logos
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2024-02-12 22:45
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『実によって見分ける』

[マタイの福音書 7:15-20]
“15偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。16あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。”

神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。

今日の本文に出てくる「偽預言者たちに用心しなさい」(15節)という御言葉と、「岩の上に家を建築した賢い人」(24節)、そして先週窺った「狭い門から入りなさい」(13節)という御言葉は、三つのテーマをおっしゃっているようですが、実際には一つの内容を繋げて仰ったものです。
マタイの福音書7章のこの内容は、マタイの福音書5章から展開されたイエス様の山上の説教[山上の垂訓]の結論部に該当する御言葉です。「天国の民は」、つまり「イエス様を信じて救われた神様の民はこのように生きなければならない」とおっしゃった後に、結論として世の中の最後の日にある救われる人と滅亡される人について仰るのです。

1. 狭い門(いのちの門)と広い門(滅びのもん)

13-14節の御言葉によれば、イエス様が「狭い門に入りなさい」と仰いながら、「滅び」に至る門と「命」に至る門を仰ったことが分かります。

[マタイの福音書 7:13-14] “狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。”

このように「滅び」と「命」が対比される御言葉として、世の最後の日にあることになる救いと裁きを結論的に仰ったのです。
上記の御言葉から「細い」(τεθλιμμένη)という御言葉の意味を理解するために、旧約聖書のエレミヤ書30:7の御言葉を拝見したいと思います。

[エレミヤ書 30:7] “わざわいだ。実にその日は大いなる日、比べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。”

この御言葉は、神様がBC6C世紀頃に活動したエレミヤ預言者を通じてイスラエルの滅亡を予言される内容です。イスラエルの罪悪と裏切りによって神様の裁きが下されるという予言だが、内容を見れば「ヤコブの患難の時だ」という御言葉がまさにイスラエルが滅亡されることを予言する内容です。ところが予言の内容には「滅亡」だけをおっしゃらず、「回復」、すなわち「救い」に対する予言も含まれています。国を奪われたイスラエルが敵国であるバビロンで70年間虜として暮らし、その後は再び戻ってきて回復するということです。
裁きと救いのメッセージを一緒に仰ったことは、イスラエルが罪を犯しても完全に捨てはしないということを知らせようとすることであり、イスラエルが神様に戻ってきて完全に神様を頼るならば再び回復させてくれるという約束を通じて希望を持たせようとすることです。
この予言があった後、イスラエルは、神様が仰ったとおりBC586年にバビロンとの戦争に敗れ、皆虜として連れて行かれることになります。
そして今現在のイスラエルを見れば分かるように、回復したイスラエルが国も取り戻し、富強な、国に発展していくことが見られます。
イエス様が仰った「細い」(τεθλιμμένη)という単語は、まさにエレミヤ30:7節の「苦難」(ה󰙜󰘼)という単語を翻訳したものです。つまり、「細い」(τεθλιμμένη)という単語は、「苦難」(ה󰙜󰘼)の意味を含んだ単語だということです。イエス様を信じるということが、私たちが望むことごとに全て行われ、することもうまくいき、病気が全て治り、いつも嬉しくて幸せであれば良いのですが、そうではないということです。内容と強度は違いますが、イエス様の弟子たちと初代教会の聖徒たちにあったように、今もクリスチャンの人生には苦難が伴い、迫害が伴うこともあり、色々な悩みと苦しみも伴うということです。
イエス様が「狭い門から入りなさい」と仰ったことは、私たちに直面するすべての苦難と患難の中でも動揺せずに永遠の命を得る「狭い門から入りなさい」ということです。
これは神様に希望を置いて、神様を切に頼りながら信仰の道を歩き続けろということです。そうする時、神様が直接助けてくださって、解決してくださる驚くべきことを経験することになるからです。
旧約時代にアンモン人とモアブ人とセイル山の人々が連合軍を形成し、イスラエルのユダの人々を攻撃したことがありました。(エホサバト、BC870-848年南ユダの4代の王)アンモン人とモアブ人とセイル山の人々は今のヨルダンに住んでいる民族です。当時、イスラエルは北イスラエルと 南ユダに分かれていましたが、南ユダはエルサレムを中心として小さな部族国家として過ごしていました。ところが、ヨルダン川の向こうの方に住んでいる部族の連合軍が南ユダを攻撃するために来ているという知らせを聞いて、南ユダの民とヨシャファテ王は怯えて断食しながら神様に叫んで祈りました。
その時、レビ人ヤハジエルという人を通じて神様がこのように仰いました。

[歴代誌 第二 20:17] “この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。ユダとエルサレムよ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにおられる。”

ユダ民族を攻撃するために侵略してきたアンモン人とモアブ人とセイル山の人々はこの日、一人も残らず皆殺しにされました。神様がユダ民族を守ってくださるために直接戦争に介入されたのです。
私たちの人生でも同じように神様が介入されることが起きます。私たちが解決できないことが起きた時、耐えられないほど厳しい状況に直面した時、私たちには神様がいらっしゃるということを忘れないでほしいです。どんな状況でも挫折したり落胆したりせずに大胆な心で生きていけるのは、神様が私たちと共にいらっしゃるからです。

[申命記 31:6] “強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。”

ですから、患難と苦難、迫害や飢饉や、そのいかなる危険と刀からの脅威と攻撃の前でも恐れず、大胆にしろとおっしゃった内容が、「狭い門から入りなさい」という御言葉なのです。
「狭い門」とは一体何なのですが、この門から入ると命を得るということでしょうか?
ヨハネの福音書10章を見れば、イエス様が「私は羊たちの門」とおっしゃいました。

[ヨハネの福音書 10:7-9] “そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。8わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。9わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。”

ここで「羊」はイスラエルの民、つまりイエス様を信じるすべての聖徒を指します。
9節、わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。”
命を得る門は、私たちの救いのために十字架で代わりに死に、再びよみがえられたイエス様を指す内容です。イエス様は山上の説教を終えながらイエス様に従うすべての人々に信仰の道は苦難が伴い患難もあるが、「狭い門から入りなさい」とおっしゃいました。

愛する聖徒の皆さん!
多くの困難や試練の中でも揺れないように願います。
いつでもどこでも、私たちと共におられるイエス様を眺めながら、信仰の道を力強く歩いていく皆さんになることを祝福します。アーメン。

2.「実で彼らを知らせなさい」(偽預言者)

[マタイの福音書 7:15-16] “偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。16あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。”

この御言葉を見ると、「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。」という内容があります。「いばら」と「アザミ」を「ぶどうの木」と「イチジクの木」と照らし合わせながらおっしゃったのです。
17-18節を見ると、これらの木を「良い木」と「悪い木」に区分しています。

[マタイの福音書 7:17-18] “良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。”

つまり、偽預言者と偽信者は、彼らの人生を通じて悪い実が現れるということです。
しかし、真実の聖徒たちは神様が喜ぶ良い実が彼らの人生に豊かに結ばれるということです。
イエス様がおっしゃったこの内容は、旧約時代にイザヤ預言者を通じて堕落したイスラエルの民のさばきを予言された内容を背景にしています。

[イザヤ書 5:1-7] “「さあ、わたしは歌おう。わが愛する者のために。そのぶどう畑についての、わが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。3 今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4 わがぶどう畑になすべきことで、何かわたしがしなかったことがあるか。なぜ、ぶどうがなるのを心待ちにしていたのに、酸いぶどうができたのか。5 さあ、今度はわたしがあなたがたに知らせよう。わたしが、わがぶどう畑対してすることを。わたしはその垣を取り払い、荒れすたれるに任せ、その石垣を崩して、踏みつけられるままにする。6 わたしはこれを滅びるままにしておく。枝は下ろされず、草は刈られず、茨やおどろが生い茂る。わたしは雨雲に命じて、この上に雨を降らせないようにする。」 7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えたもの。主は公正を望まれた。しかし見よ、流血。正義を望まれた。しかし見よ、悲鳴。”

1節の後半から見ると、肥えた山腹に掘り起こして、石を除き、どんなブドウの木を植えたそうですか?
良いブドウが結ばれることを願っていましたが、どんなブドウが結ばれましたか?
では、7節で、肥えた山腹に植えたそのブドウの園は誰だとおっしゃっていますか?
神様が喜ぶ木、つまりイチジクの木は誰を指していますか?
いずれもイスラエルを比喩的に指す内容です。
神様が肥えた山腹に極上品のブドウの木を植えて、良いブドウを結ぶことを願っていましたが、酸いブドウを結んだとおっしゃっています。
この比喩の解釈は、7節の後半部でおっしゃっています。
神様は約束の地であるカナンにイスラエルを「公正と正義」を行う国に立てましたが、彼らはむしろ人々の無念の血を流すようにし、民衆を圧制して不義を行ったのです。
「酸いブドウ」とは、「腐った悪臭」や無駄なことを意味するもので、腐敗し堕落したイスラエルの指導者たちによって貧しく力のない一般の民は無念な死に遭い、搾取に遭い苦しむことを含意している言葉です。
イエス様はこのような旧約時代の背景を念頭に置いて、偽善的な教会の指導者と偽キリスト教徒に注意しろとおっしゃったのです。表向きは聖なるクリスチャンとしての姿をしていますが、羊の服を着て略奪しようとする人なのか、これに対しては「彼らを実によって見分けることになるのです。」とおっしゃったのです。
彼らの人生を通じてその正体が判別されるということです。

[マタイの福音書 7:19-20] “良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。”

神様はすべての神様の民が良い実を結ぶことを望んでいます。
つまり、公正と正義を行い、不義なことに加担することを捨てることを望んでいます。
“良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれる”とおっしゃいましたが、これは最初からイエス様を信じない人を指す御言葉です。実を結んでこそ救われるのではなく、イエス様を信じてこそ救われるからです。
私たちが救われたは、「善行や、功労による、すなわち行為を通じた救い」ではなく、「神様の恵みによってイエス·キリストの十字架の贖いを信じる人が救われることになる」ということを覚えておいてください。

[エペソ人への手紙 2:8-9] “この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”

私たちの努力や、善行や、功労によって救われたわけではないので、私たちは何も自慢することがない人々です。私たちはイエス·キリストの御恵みによって救われたなので、キリストが賛美と敬拝を受け、すべての教会が高めなければならないのです。
だからといって、善行をするなというわけではありません。救いは信仰で受け、善行を通じては神様から褒められて報いを受けるからです。

[箴言 19:17] “貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。”

貧しい人を助ける行為は神様に貸すことになるとおっしゃいましたし、彼の善行に対して神様が直接報いてくださるとおっしゃいました。
そして、良いことを植えると良をおさめることになり、悪いことを植えると悪いことをおさめることになる絶対不変の法則もおっしゃいました。

[ガラテヤ人への手紙 6:7-10] “思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。8自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。9失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。10ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。”

イエス·キリストの救いの恵みを受けた人は、イエス様の愛と十字架を考えるだけで胸がしびれ、その恵みがとても感謝して良い実を結ぶために最善を尽くす信仰生活をするようになります。
救われ天国に入るために信仰生活をするのではなく、救われたために感謝の気持ちを持って天国の民としての聖なる人生を辛くても生きていくのです。

[ヨハネの福音書 5:24] “まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。”

イエス·キリストの十字架の福音を聞いて、神様が私たちを救うためにイエス·キリストを送られたという事実を信じる人は、「永遠のいのちを得て」、「さばきにあうことがなく」、「死から命に移された」とおっしゃっています。
この御言葉で死から命に「移された」という動詞は完了形なので、イエス·キリストを信じる人は「救われた」という意味です。未来に救われるのではなく、すでに救われた人として分類されたということです。ですから、救われて天国に行くために礼拝をしたり、善行を行うのではなく、救われた天国の市民になったので、それにふさわしい人生を生きていくことが信仰の人生なのです。
イエス様は真の聖徒と偽の聖徒を見分ける方法として、「実によって見分けることになる」とおっしゃいました。人生で現れる信仰の実を通じて見分けることが可能だということです。

それでは、私たちが真の信者と偽の信者を見分けるために「良い実」を結ぶのか、悪い実を結ぶのかを調べる時、先に誰を見るべきでしょうか?
先に自分自身を見なければなりません。
神様の御言葉はいつも自分自身におっしゃっていると思って聞かなければなりません。
ですから、実を点検することも、先に自分自身に適用しなければなりません。
私は良い実を結ぶ人生を生きているのか、悪い実を結ぶ人生を生きているのかを調べ、真の天国の民として良い実を結ぶために努力をしているのかを振り返る聖徒にならなければなりません。
酸いブドウの木にならないために、常に聖書を身近にし、黙想しながら自分の考えと人生を聖書の御言葉に一致させるように努力するすべての聖徒になることを願います。

神様が喜ばれる良い実がすべての人生に満ちていて、神様に認められ褒められる皆さんになることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。


[お祈りいたします]

天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
神様の御恵みによってイエス様を信じるようになり、神様の子供になるようにしてくださって感謝いたします。
私たちの前にある二つの分かれ道で救いの門に向かって狭い道を歩いていく私たち皆になるようにお願いいたします。
良い実が豊かに結ばれる信仰の人生のために、まず自分自身から変化し、決断させていただき、神様の御言葉を毎日黙想して実践しながら、神様と親しく同行する人生を生きるように恵みを施してくださいますようお願いいたします。
私たちの考えと人生のすべての内容が聖書の御言葉と一致するように導いてくださいますようお願いいたします。イエス様の御名によってお祈りいたします. アーメン。
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