メッセージ
[主日礼拝-240218] 『御言葉の岩の上に家を建てた賢い人』 (マタイの福音書 7章21節-27節)
投稿者
logos
投稿日
2024-02-18 15:12
閲覧数
592
『御言葉の岩の上に家を建てた賢い人』
[マタイの福音書 7:21-27]
“21わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 24ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。26また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」”
神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。
1. 神様の思い通りに行う人
今日の御言葉によればイエス様は、
[マタイの福音書 7:21] “わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、”
この御言葉を聞きながら、私たちは信仰に対する真剣な心構えを持つ必要があります。
私がイエス様を信じると言いながら、普段神様の御前での人生をどのように生きているのかを振り返らなければならないのです。私を救うために、私のために、イエス様が十字架で代わりに死んでくださったという事実を信じるならば、今私たちはこの世の中で何をどのようにして生きていかなければならないかを慎重に考えなければならないということです。
21節の御言葉の全体を見ますと、
[マタイの福音書 7:21] “わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。”
と仰っています。
この内容を見ると、救われて天国に入ることが、信仰に向かうのではなく、行為を通じて天国に入ることになるように認識されることもあります。
しかし、救いは行為(善行、功労、努力、能力など)で得るのではなく、ただ信仰によって得るというのが聖書の全体を通じておっしゃる変わらない真理です。私たちの努力や功労が全くなく、信仰だけで得たものが救いなので、それを「恵み」というのです。もし私たちの努力や善行や功労が少しでも救われることに影響を及ぼしたとすれば、それは私たちが勝ち取ったものであり、恵みによって受けたものではないということになるのです。
聖書を通じて神様ははっきりとおっしゃっています。
[使徒の働き 16:31] “二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」”
[エペソ人への手紙 2:8-9] “この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”
したがって、救いは神様の恵みによって信仰によって受けたという事実を必ず記憶してください。
世の中には人の功労が含まれた救援教理を教える異端宗教団体が多くあります。
彼らは救いの真理を変質させ、希釈させて、私たちの主イエス·キリストの大きな恵みと愛を縮小させたり、最小化させたりするので、この部分については必ず皆さんが信じて、記憶して揺れない信仰を持たなければなりません。
それでは本文の21節の御言葉をどう理解すればいいでしょうか?
[マタイの福音書 7:21] “わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。”
救いは信仰で受けます。
ところが、救われた天国の民がこれから生きていく生き方は、天国の法、すなわち神様の御言葉に従って生きていかなければならないということです。
「天国」という言葉は、「空」という単語と「王国」という単語の合成語です。
「天にある王国」、つまり「神様の御国」、「天国」とも言われるこの御言葉は、「神様の統治」、「神様の治め」を意味する御言葉です。
つまり、「神様の御国」は日本、韓国、中国のように地域と境界のある国を意味するのではなく、「神様の統治と治めを受けるすべての人がいる場所」がすなわち「神様の御国」という意味になるのです。
そのような意味で、自分がイエス様を信じると言いながら、私は救われた神様の子供だと言いながら、神様の統治と治めを拒否するならば、果たしてその信仰が真の信仰なのかについて深く考えてみなければならないのです。
イエス様の当時、ユダヤ人たちは皆血統的にアブラハムの子孫であり、神様に選ばれた民族だという誇りと自負心を持っていたので、ただの一人も自分が救いから除外されるという考えは持っていませんでした。イスラエル民族は当然救われるだろうし、その他に少数の他民族が神様の哀れみによって救われることもありうるという考えを持っていたのです。
そのようなユダヤ人たちにイエス様のこの御言葉は破格的で、衝撃的ではありませんでした。ユダヤ人の中にも救われない人がいるという御言葉だったからです。
救われた神様の民は天の父の意思に従い、その方の統治と治めに完全に従って生きていくのが当然の姿です。
ところで私たちの姿はどうですか?
私たちの信仰がまだ神様の治めを後にしていて、自分の意志と志に従って生きていく姿ならば、もう少し直して変化するために努力する姿を持たなければなりません。
神様はヤコブ使徒を通じてこのようにおっしゃっています。
[ヤコブの手紙 2:14] “私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。”
[ヤコブの手紙 2:26] “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”
神様の意思に従う信仰が人生につながる時、完全な信仰として認められるという御言葉です。
それなら、おっしゃる通りに生きられないと神様から捨てられることになるのでしょうか? 「違います。」
どうして自分の子供が言うことを聞かないからといって捨てますか?
人もそうではないのに、神様はもっとそういう方ではありません。
人は神様の御言葉を完璧に守りながら生きることができない存在です。
神様はそれをすべて御存じの方です。それで神様が私たちのためにイエス様を送ってくださったのです。私たちが完璧に守ることができたなら、イエス様が来られる必要がなかったでしょう。
私たちの心、神様はそれを見られるのです。
普段、私たちの心が神様の法の中で、神様の思い通りに生きようとする意志があるのか、それとも全くないのかを振り返りながら、「信仰の未成熟さを自ら探りなさい」ということです。
つまり、成熟と未成熟の違いであり、救いから見捨てられるわけではありません。
神様はすべての人が救いに至ることを望む方です。
[テモテへの手紙 第一 2:4] “神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”
ただ一人も地獄の火に投げ込まれることを望まない方です。しかし、人が救いを拒否するときは仕方がないのです。
[ローマ人への手紙 2:4-5] “それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。5 あなたは、頑くなで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。”
御言葉を聞きながら心に刺さることがあれば、その人は神様の人です。
神様の御言葉に照らしてみると、自分の姿から未成熟さを発見したとすれば、やはり神様の人です。
より成熟した信仰者に成長できるよう、聖書の御言葉を毎日黙想し、小さな部分から御言葉通りに実践しようと努力する皆さんになることを祝福します。
2. 石の上に家を建てる人
世の中の最後の日、すなわち神様のさばきの日に多くの人々がイエス様の御前で自身の信仰の証を自慢して救われることを切実に願います。しかしその時にイエス様は、「私はおまえたちを全く知らないから不法を行う者たちよ、私から離れて行け」とおっしゃるということです。
[マタイの福音書 7:23] “しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 ”
イエス様はなぜ色々な奇跡を起こした人々を知らないとおっしゃり、彼らにむしろ「不法を行う者たちよ、私から離れ」とおっしゃったのでしょうか?
聖書でおっしゃる 「不法」という単語の辞書的な意味は、
1)法を犯す行為、すなわち「違法」を不法といいます。
2)悪行を行うことも不法だと言われています。
3)そして無法、つまりその心に何の法もないことも不法だそうです。
これは神様の御言葉に逆らう人や、神様が禁じた悪行を犯す人や、神様の御言葉が最初からその心にない人たちを指す御言葉です。
それでイエス様も神様の民だと言いながら、救われたイスラエルだと言いながら、神様の御言葉に逆らって、悪行を日常的に行い、心に神様の御言葉なしに生きていく人々に向かって「不法を行う者たちよ、私から離れ」とおっしゃったのです。
このような内容は、神様を信じる人々の人生の基礎が世の中の学問や思想ではなく、神様の御言葉でなければならないという事実を教えてくれます。
イエス様は比喩として次のようにおっしゃいました。
[マタイの福音書 7:24-27] “24ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。26また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」”
この比喩は、先ほどおっしゃった内容をより明確に説明するためにおっしゃった内容です。
24節に、「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」とおっしゃって、
逆に26節には、“わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。”おっしゃいました。
ここでイエス様がおっしゃりたい内容は、「どこに家を建築するか」です。
つまり、「基礎は何か」ということです。
人それぞれに人生という家を建築しながら暮らしていますが、どこに価値を置き、何を基礎に生きているかによって全く違う結果を迎えることになるということです。
神様の御言葉を聞いて、そのまま行いながら生きる人は、いかなる患難や苦難に見舞われても動揺せずに生きていきますが、神様の御言葉を聞いても行わない人は、小さな台風でも人生が揺れ、崩れる不安な人生を生きていくということです。
この問題は人間が幸せと不幸の岐路に立った時、不幸を迎えることになった太初の事件ともオーバーラップされる内容です。
アダムとエバが神様が禁止した「善悪の知識の木」からの実を食べて以後からすべての人類が不幸を迎えるようになったように、神様の御言葉に背を向けて離れて暮らす人生はいつも不安で満足がなく、神様の意とは正反対の人生を生きていくことになります。
これが「不法」を行う人生です。
神様はイスラエルの民に神様の御言葉がすなわち幸せの鍵だということを数えきれないほど強調し、さらに強調しました。
[申命記 11:26-28] “見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。27祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合であり、28のろいとは、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。”
しかし、イスラエルは生活が豊かになり、国が豊かになると、神様の御言葉を捨てて他の神に仕えたり、自分たちがやりたいようにしながら生きていました。このような選択は結局イスラエルに災いを招くことになり、戦争や自然災害、病気などで数多くの人命が死に至ったりもしました。一歩遅れて自分たちの過ちに気づいたイスラエルの民たちが悔い改め、神様のもとに戻って赦しを請うと、神様はイスラエルを受け入れてくださり、再び富強にしてくださいました。しかし、イスラエルは自分たちが富強になると再び神様の御言葉を捨て、傲慢になって -> 犯罪を犯し -> これによって神様のさばきを受けて -> 深刻な苦難と苦痛を体験することになります。 -> それではイスラエルは再び悔い改め、神様に赦しを求め、神様はイスラエルを赦し、再び回復させてくださいます。
このような過程が繰り返されるのが、聖書に現れるイスラエルの歴史であり、私たち、人間の歴史です。
愛する聖徒の皆さん!
私たちの人生は一度だけです。
死以降は再び転生したり、この世に戻ることはありません。
すべての人は天国に行くか地獄に行くか、どちらかに行くことになります。
一度だけの人生を苦しめたり価値なく浪費し、無駄に消費するミスを犯さないためには、神様の御言葉の中に入って下さい。苦難と苦痛に遭いながら悟って帰ってくる人も神様の恵みのおかげですが、そのような苦難を体験せずに安らかに生きていける道もあるということを覚えて下さい。神様の御言葉と一致した人生を生きていく時、真の幸せと平安を経験することになるという事実を覚えてください。
神様の民はどの分野で従事しても神様の意思に従って生きていくように選ばれた約束の民たちです。毎日の人生の中で神様と親密な関係を維持し、堅固な御言葉の上に土台を据えられて崩れない人生の家を建築するすべての聖徒になることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。
[お祈りいたします]
天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
神様の御言葉の盤石の上にしっかりと建てられた家のように、様々な問題や困難の中でも動揺せず、神様の御言葉に従って生きていくように助けてください。
神様の意思が分かる知恵を与えてくださり、左にも右にも偏らず、ただ一つの道でイエス·キリストだけを追いかけていく主の民たちになるようにして下さり、一人ももれなく天国に入って幸せな永遠の人生を生きていけるよう御恵みを施して下さい。イエス様の御名によってお祈りいたします. アーメン。
[マタイの福音書 7:21-27]
“21わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。22その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』 23しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 24ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。26また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」”
神様の御前に出てきて、真心で礼拝する主の民たちに、主の惠みと平安がすべての人生に溢れることを祝福します。
1. 神様の思い通りに行う人
今日の御言葉によればイエス様は、
[マタイの福音書 7:21] “わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、”
この御言葉を聞きながら、私たちは信仰に対する真剣な心構えを持つ必要があります。
私がイエス様を信じると言いながら、普段神様の御前での人生をどのように生きているのかを振り返らなければならないのです。私を救うために、私のために、イエス様が十字架で代わりに死んでくださったという事実を信じるならば、今私たちはこの世の中で何をどのようにして生きていかなければならないかを慎重に考えなければならないということです。
21節の御言葉の全体を見ますと、
[マタイの福音書 7:21] “わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。”
と仰っています。
この内容を見ると、救われて天国に入ることが、信仰に向かうのではなく、行為を通じて天国に入ることになるように認識されることもあります。
しかし、救いは行為(善行、功労、努力、能力など)で得るのではなく、ただ信仰によって得るというのが聖書の全体を通じておっしゃる変わらない真理です。私たちの努力や功労が全くなく、信仰だけで得たものが救いなので、それを「恵み」というのです。もし私たちの努力や善行や功労が少しでも救われることに影響を及ぼしたとすれば、それは私たちが勝ち取ったものであり、恵みによって受けたものではないということになるのです。
聖書を通じて神様ははっきりとおっしゃっています。
[使徒の働き 16:31] “二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」”
[エペソ人への手紙 2:8-9] “この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。”
したがって、救いは神様の恵みによって信仰によって受けたという事実を必ず記憶してください。
世の中には人の功労が含まれた救援教理を教える異端宗教団体が多くあります。
彼らは救いの真理を変質させ、希釈させて、私たちの主イエス·キリストの大きな恵みと愛を縮小させたり、最小化させたりするので、この部分については必ず皆さんが信じて、記憶して揺れない信仰を持たなければなりません。
それでは本文の21節の御言葉をどう理解すればいいでしょうか?
[マタイの福音書 7:21] “わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。”
救いは信仰で受けます。
ところが、救われた天国の民がこれから生きていく生き方は、天国の法、すなわち神様の御言葉に従って生きていかなければならないということです。
「天国」という言葉は、「空」という単語と「王国」という単語の合成語です。
「天にある王国」、つまり「神様の御国」、「天国」とも言われるこの御言葉は、「神様の統治」、「神様の治め」を意味する御言葉です。
つまり、「神様の御国」は日本、韓国、中国のように地域と境界のある国を意味するのではなく、「神様の統治と治めを受けるすべての人がいる場所」がすなわち「神様の御国」という意味になるのです。
そのような意味で、自分がイエス様を信じると言いながら、私は救われた神様の子供だと言いながら、神様の統治と治めを拒否するならば、果たしてその信仰が真の信仰なのかについて深く考えてみなければならないのです。
イエス様の当時、ユダヤ人たちは皆血統的にアブラハムの子孫であり、神様に選ばれた民族だという誇りと自負心を持っていたので、ただの一人も自分が救いから除外されるという考えは持っていませんでした。イスラエル民族は当然救われるだろうし、その他に少数の他民族が神様の哀れみによって救われることもありうるという考えを持っていたのです。
そのようなユダヤ人たちにイエス様のこの御言葉は破格的で、衝撃的ではありませんでした。ユダヤ人の中にも救われない人がいるという御言葉だったからです。
救われた神様の民は天の父の意思に従い、その方の統治と治めに完全に従って生きていくのが当然の姿です。
ところで私たちの姿はどうですか?
私たちの信仰がまだ神様の治めを後にしていて、自分の意志と志に従って生きていく姿ならば、もう少し直して変化するために努力する姿を持たなければなりません。
神様はヤコブ使徒を通じてこのようにおっしゃっています。
[ヤコブの手紙 2:14] “私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。”
[ヤコブの手紙 2:26] “からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。”
神様の意思に従う信仰が人生につながる時、完全な信仰として認められるという御言葉です。
それなら、おっしゃる通りに生きられないと神様から捨てられることになるのでしょうか? 「違います。」
どうして自分の子供が言うことを聞かないからといって捨てますか?
人もそうではないのに、神様はもっとそういう方ではありません。
人は神様の御言葉を完璧に守りながら生きることができない存在です。
神様はそれをすべて御存じの方です。それで神様が私たちのためにイエス様を送ってくださったのです。私たちが完璧に守ることができたなら、イエス様が来られる必要がなかったでしょう。
私たちの心、神様はそれを見られるのです。
普段、私たちの心が神様の法の中で、神様の思い通りに生きようとする意志があるのか、それとも全くないのかを振り返りながら、「信仰の未成熟さを自ら探りなさい」ということです。
つまり、成熟と未成熟の違いであり、救いから見捨てられるわけではありません。
神様はすべての人が救いに至ることを望む方です。
[テモテへの手紙 第一 2:4] “神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。”
ただ一人も地獄の火に投げ込まれることを望まない方です。しかし、人が救いを拒否するときは仕方がないのです。
[ローマ人への手紙 2:4-5] “それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。5 あなたは、頑くなで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。”
御言葉を聞きながら心に刺さることがあれば、その人は神様の人です。
神様の御言葉に照らしてみると、自分の姿から未成熟さを発見したとすれば、やはり神様の人です。
より成熟した信仰者に成長できるよう、聖書の御言葉を毎日黙想し、小さな部分から御言葉通りに実践しようと努力する皆さんになることを祝福します。
2. 石の上に家を建てる人
世の中の最後の日、すなわち神様のさばきの日に多くの人々がイエス様の御前で自身の信仰の証を自慢して救われることを切実に願います。しかしその時にイエス様は、「私はおまえたちを全く知らないから不法を行う者たちよ、私から離れて行け」とおっしゃるということです。
[マタイの福音書 7:23] “しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』 ”
イエス様はなぜ色々な奇跡を起こした人々を知らないとおっしゃり、彼らにむしろ「不法を行う者たちよ、私から離れ」とおっしゃったのでしょうか?
聖書でおっしゃる 「不法」という単語の辞書的な意味は、
1)法を犯す行為、すなわち「違法」を不法といいます。
2)悪行を行うことも不法だと言われています。
3)そして無法、つまりその心に何の法もないことも不法だそうです。
これは神様の御言葉に逆らう人や、神様が禁じた悪行を犯す人や、神様の御言葉が最初からその心にない人たちを指す御言葉です。
それでイエス様も神様の民だと言いながら、救われたイスラエルだと言いながら、神様の御言葉に逆らって、悪行を日常的に行い、心に神様の御言葉なしに生きていく人々に向かって「不法を行う者たちよ、私から離れ」とおっしゃったのです。
このような内容は、神様を信じる人々の人生の基礎が世の中の学問や思想ではなく、神様の御言葉でなければならないという事実を教えてくれます。
イエス様は比喩として次のようにおっしゃいました。
[マタイの福音書 7:24-27] “24ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。26また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」”
この比喩は、先ほどおっしゃった内容をより明確に説明するためにおっしゃった内容です。
24節に、「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」とおっしゃって、
逆に26節には、“わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。”おっしゃいました。
ここでイエス様がおっしゃりたい内容は、「どこに家を建築するか」です。
つまり、「基礎は何か」ということです。
人それぞれに人生という家を建築しながら暮らしていますが、どこに価値を置き、何を基礎に生きているかによって全く違う結果を迎えることになるということです。
神様の御言葉を聞いて、そのまま行いながら生きる人は、いかなる患難や苦難に見舞われても動揺せずに生きていきますが、神様の御言葉を聞いても行わない人は、小さな台風でも人生が揺れ、崩れる不安な人生を生きていくということです。
この問題は人間が幸せと不幸の岐路に立った時、不幸を迎えることになった太初の事件ともオーバーラップされる内容です。
アダムとエバが神様が禁止した「善悪の知識の木」からの実を食べて以後からすべての人類が不幸を迎えるようになったように、神様の御言葉に背を向けて離れて暮らす人生はいつも不安で満足がなく、神様の意とは正反対の人生を生きていくことになります。
これが「不法」を行う人生です。
神様はイスラエルの民に神様の御言葉がすなわち幸せの鍵だということを数えきれないほど強調し、さらに強調しました。
[申命記 11:26-28] “見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。27祝福とは、私が今日あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従った場合であり、28のろいとは、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道から外れて、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行った場合である。”
しかし、イスラエルは生活が豊かになり、国が豊かになると、神様の御言葉を捨てて他の神に仕えたり、自分たちがやりたいようにしながら生きていました。このような選択は結局イスラエルに災いを招くことになり、戦争や自然災害、病気などで数多くの人命が死に至ったりもしました。一歩遅れて自分たちの過ちに気づいたイスラエルの民たちが悔い改め、神様のもとに戻って赦しを請うと、神様はイスラエルを受け入れてくださり、再び富強にしてくださいました。しかし、イスラエルは自分たちが富強になると再び神様の御言葉を捨て、傲慢になって -> 犯罪を犯し -> これによって神様のさばきを受けて -> 深刻な苦難と苦痛を体験することになります。 -> それではイスラエルは再び悔い改め、神様に赦しを求め、神様はイスラエルを赦し、再び回復させてくださいます。
このような過程が繰り返されるのが、聖書に現れるイスラエルの歴史であり、私たち、人間の歴史です。
愛する聖徒の皆さん!
私たちの人生は一度だけです。
死以降は再び転生したり、この世に戻ることはありません。
すべての人は天国に行くか地獄に行くか、どちらかに行くことになります。
一度だけの人生を苦しめたり価値なく浪費し、無駄に消費するミスを犯さないためには、神様の御言葉の中に入って下さい。苦難と苦痛に遭いながら悟って帰ってくる人も神様の恵みのおかげですが、そのような苦難を体験せずに安らかに生きていける道もあるということを覚えて下さい。神様の御言葉と一致した人生を生きていく時、真の幸せと平安を経験することになるという事実を覚えてください。
神様の民はどの分野で従事しても神様の意思に従って生きていくように選ばれた約束の民たちです。毎日の人生の中で神様と親密な関係を維持し、堅固な御言葉の上に土台を据えられて崩れない人生の家を建築するすべての聖徒になることを尊いイエス·キリストの御名によって祝福します。アーメン。
[お祈りいたします]
天地の造り主私たちの父なる神様、今日も命の御言葉を聞かせてくださって感謝いたします。
神様の御言葉の盤石の上にしっかりと建てられた家のように、様々な問題や困難の中でも動揺せず、神様の御言葉に従って生きていくように助けてください。
神様の意思が分かる知恵を与えてくださり、左にも右にも偏らず、ただ一つの道でイエス·キリストだけを追いかけていく主の民たちになるようにして下さり、一人ももれなく天国に入って幸せな永遠の人生を生きていけるよう御恵みを施して下さい。イエス様の御名によってお祈りいたします. アーメン。
合計 89
手順 | タイトル | 投稿者 | 投稿日 | 推薦 | 閲覧数 |
お知らせ |
福音とは何ですか?
logos
|
2023.09.08
|
推薦 0
|
閲覧数 622
|
logos | 2023.09.08 | 0 | 622 |
88 |
New [主日礼拝-250420]『イエス様の復活』(ルカの福音書 24:1-12)_復活主日_聖餐式
logos
|
2025.04.20
|
推薦 0
|
閲覧数 9
|
logos | 2025.04.20 | 0 | 9 |
87 |
[主日礼拝-250413]『十字架を通したメッセージ』(イザヤ書 53章1節-6節)_受難週間
logos
|
2025.04.14
|
推薦 0
|
閲覧数 14
|
logos | 2025.04.14 | 0 | 14 |
86 |
[主日礼拝-250406]『小さい者のための心遣い』(マタイの福音書 18章5節-10節)
logos
|
2025.04.06
|
推薦 0
|
閲覧数 16
|
logos | 2025.04.06 | 0 | 16 |
85 |
[主日礼拝-250330]『子供のような信仰』(マタイの福音書 18章1節-4節)
logos
|
2025.03.30
|
推薦 0
|
閲覧数 19
|
logos | 2025.03.30 | 0 | 19 |
84 |
[主日礼拝-250323]『神殿税を納めた理由』(マタイの福音書 17章22節-27節)
logos
|
2025.03.24
|
推薦 0
|
閲覧数 26
|
logos | 2025.03.24 | 0 | 26 |
83 |
[主日礼拝-250316] 『大きな信仰の人になるために』(マタイの福音書 17章14節-20節)
logos
|
2025.03.17
|
推薦 0
|
閲覧数 26
|
logos | 2025.03.17 | 0 | 26 |
82 |
[主日礼拝-250309]『キリストの栄光を見た弟子たち』(マタイの福音書 17章1節-13節)
logos
|
2025.03.10
|
推薦 0
|
閲覧数 50
|
logos | 2025.03.10 | 0 | 50 |
81 |
[主日礼拝-250302]『私について来たいと思うなら』(マタイの福音書 16章21節-27節)
logos
|
2025.03.02
|
推薦 0
|
閲覧数 32
|
logos | 2025.03.02 | 0 | 32 |
80 |
[主日礼拝-250223] 『あなたは私を誰だと言いますか』(マタイの福音書 16章13節-17節)
logos
|
2025.02.27
|
推薦 0
|
閲覧数 38
|
logos | 2025.02.27 | 0 | 38 |
79 |
[主日礼拝-250216] 『信仰の告白(2)』 (マタイの福音書 16章13節-17節)
logos
|
2025.02.16
|
推薦 0
|
閲覧数 38
|
logos | 2025.02.16 | 0 | 38 |